1. 騎馬鷹狩文化の起源を求めて
    ~アルタイ山脈に暮らすカザフ遊牧民と鷹匠の民族誌~
    相馬 拓也(特定NPO法人「ヒマラヤ保全協会」理事、農学博士(ドイツ、カッセル大学))

     
    モンゴル西部バヤン・ウルギー県の少数民族アルタイ系カザフ人の牧畜社会では、イヌワシを用いた鷹狩技法がいまも存続し、同県内には90名程度の鷹匠(鷲使い)が現存する。発表者が2006年9月より行っている、アルタイ地域に根づく「騎馬鷹狩文化」と鷲使いの民族誌を中心に報告された。

     イヌワシはメスのみを馴化させるという。騎馬習慣の必要性、給餌動物の適性、頻度、分量など詳述され、鷹狩と伝統知継承の社会条件等にも言及された。詳細な論考が配付されている。一読をお勧めしたい。

     イヌワシ1羽に必要な食肉量は、ヒツジ・ヤギ7~12頭分/年と推測されている。

     偶々12月26日のテレビ東京で、モンゴル西部に住むイーグルハンター一家の様子が放映され、同地の「カザフ人の誇り」という「イーグルハンター」を目指す3人の息子と娘(11歳)の姿も描写されていました。

  2. 慈恵医大槍ヶ岳山岳診療所の活動報告
    ~山岳診療所から見える山の世界
    油井 直子(慈恵医大槍ヶ岳山岳診療所医師、聖マリアンナ医科大学スポーツ医学講座講師)


     日本の山岳診療所が開設・運営されてきた歴史、槍が岳診療所の施設の紹介、ボランティアチームによる診療活動・生活の様子、症例紹介(低体温症、高山病等)、自身が経験した中で最も重い症例(槍の穂先直下のはしごから転落、頸椎損傷で手足が動かず)などが語られた。

     質問が多く寄せられた。診療所と警察・自衛隊所属の医師、救助隊との関係、診療所所員の事故に対するあてがい、高山病対策・具体的処置、低体温症予防のため予め取るべき有効な方策、診療所利用者の事故原因等の傾向、ボランティアに対する支援策など等である。
     
     穂苅家3代、初代が松本でお世話になっていた医者が慈恵医大出身という。この事が縁となって、槍の肩に診療所を開設することに繋がったといいます。
     
     油井さんから補足情報によれば、診療所は完全なボランテイアで成り立っている。最近は人気があり過ぎて、日程変更を余儀なくされるドクターも看護師さんも大勢いるほど、本当に嬉しい状況である。これほどの人気の理由は、参加者全てが美しい槍ヶ岳に魅せられていること、また、親切な山荘従業員さんらと親密な協力体制で業務がすすめられていることなどが考えられる。とのことである。

  3. 幡隆上人の槍ヶ岳開山と飛州新道
    ~信州の鷹匠屋・中田又重郎と共に~
    穂苅 康治(槍ヶ岳山荘グループ代表、笹ヶ峰会)


     江戸時代末期に槍ヶ岳を開山した越中国新川郡川内生まれの念仏行者、播隆上人の偉業、そして播隆の偉業を現場で支えた中田又重(or又重郎とも言う)、信州は勿論美濃や飛騨、尾張の信者たちの帰依する様子も紹介された。

     柳宗悦著「宗教随想」には『ウエストン以前、恐らく修験道の行者達でこれ(登山)を試みた者は相当にあったと思えるその中で最も偉大な一人と思われるのは播隆上人である。もしウェストンが播隆上を知っていたら、大なる先駆者として絶大な讃辞と敬意を、播隆上人に献げたであろう。』とあります。播隆上人、そして現場で支えた中田又重のことは、もっともっと多くの方々に知って欲しいと思います。

     1840年、上人は槍ヶ岳登拝者のために「善の綱」と呼ぶ鉄鎖を山頂に設置された。浄財を募り、素材を集め鋳造し、運搬、荷上げ、設置など…多くの苦労、筆舌に尽し難い苦労、年月があったであろうことは、想像に難くない。

     このことからも播隆上人を支えたのは、広範な地域の多くの民衆の「願い・祈り」であったことがはっきりと判る思いが致します。

  4. 茶の原産地としての雲南
    松下 智((茶の文化振興会) 豊茗会会長、(元)愛知大学教授)


     中国の長い歴史のなかで、西双版納が明記されるのは、新中国設立後である。新中国設立以前は、その辺りは、タイ族により12の区分で支配されていた。西双版納の多くの民族は、茶の飲用以前はビンローの嗜好があった。茶の原産地究明は西双版納については明らかにならないが、西双版納東部山地に続くラオス、ベトナムの産地で解明されつつある。

     今回は、雲南と雲南周辺の地域を視野に置いて、茶の原産地に係る研究の成果を紹介された。

     以下、配付資料から抜粋して転載します。

     茶の木を見ると、江南の中心地とみられる洞庭湖の西側山地「武陵山」まで、雲南地方から数千年余の年月で、たどり着いたのではないかと推測される。そして、この武陵山の山地に住む蛮族、瑶族によって、利用が始まり、現在まで広く伝えられてきたのではないか、と考えられる。瑶族は、盤王を神として崇拝しているが、これは漢族の崇拝する神農と同時期に始まっている。茶の木が育つ武陵山から、北方の漢族の住居地まで、茶が送られてきたわけである。

     雲南省西双版納の民族が茶の木を利用するようになったのは、宋代、元代、さらに明代になって瑶族が西双版納に移住するようになってからではないか、と考える。西双版納の茶といえば、勐腊県の北西に発達した「六茶山」と云われる古い茶産地があるが、現在では、茶産地としての面影は見られない。しかし、瑶族と同じ時代に開発されたとみられる「基诺山」だけは、基诺族によって現在も茶産地として発展している。
  5. 遊牧、移牧、定牧
    ~モンゴル、チベット、ヒマラヤ、アンデスのフィールドから~
    稲村 哲也(愛知県立大学名誉教授、放送大学教授)

     話者はペルー・アンデスの標高4000m を越える高原で、リャマとアルパカを飼う牧民の調査を長く続けてきた。ヒマラヤでは、ヤクなどを飼育するネパールのシェルパ民族を始め、ブータンやインドなどでも調査を行なってきた。2大高地を中心に、モンゴルも加え、牧畜を中心に人々の生活を紹介しながら、人と自然の持続的な関係、外部世界との関係等について、略述された。

     農耕が不可能な環境-寒冷地! 高地! 乾燥地!-で家畜を飼うことで適応し、持続的な生活を送る人々(牧畜民)について、6地域を取り上げ、「移動」に焦点を当てて比較された。

    1. 遊牧: モンゴル・ゴビ沙漠(乾燥地で標高約1,000m)の例
    2. 遊牧と狩猟: モンゴル北部トゥバ民族(タイガ地域、標高1,800~2,400m)の例
    3. 遊牧: インド・ラダック地方(チャンタン高原、4,600~4,900m)の例
    4. 移牧: ネパール・シェルパ民族、ヤクとゾモの移牧、2,500~4,500m、農牧民の例
    5. 移牧: ブータン・ブムタンの2重(ヤク・ゾモ(4,500~3,000m)&ジャツァム(ミタンと牛のハイブリッド、3,000~1,500m))の移牧の例
    6. 定牧: ペルー・アンデス、ケチュア民族(アレキーパ県)。リャマとアルパカの牧畜(標高4,500m 前後の高原で1年中放牧): 定牧 の例

     何しろ40余年に亘る牧畜(遊牧、移牧、定牧)研究のお話である。是非、配布資料をご覧いただき、参考文献で深耕を図っていただきたい。

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