次に、『幡隆上人の槍ヶ岳開山と飛州新道 ~信州の鷹匠屋・中田又重郎と共に~』と題して、穂苅 康治氏(槍ヶ岳山荘グループ代表、笹ヶ峰会)のご発表をいただきました。
【添付資料】
20151219-35-03-穂苅ー席上配付資料ー幡隆上人の槍ヶ岳開山と飛州新道.pdf
20151219-35-03-穂苅ープロジェクタ資料ー幡隆上人の槍ヶ岳開山と飛州新道.pdf
江戸時代末期に槍ヶ岳を開山した越中国新川郡川内生まれの念仏行者、播隆上人の偉業、そして播隆の偉業を現場で支えた中田又重(or又重郎とも言う)、信州は勿論美濃や飛騨、尾張の信者たちの帰依する様子も紹介された。
柳宗悦著「宗教随想」には『ウエストン以前、恐らく修験道の行者達でこれ(登山)を試みた者は相当にあったと思えるその中で最も偉大な一人と思われるのは播隆上人である。もしウェストンが播隆上人を知っていたら、大なる先駆者として絶大な讃辞と敬意を、播隆上人に献げたであろう。』とあります。播隆上人、そして現場で支えた中田又重のことは、もっともっと多くの方々に知って欲しいと思います。
1840年、上人は槍ヶ岳登拝者のために「善の綱」と呼ぶ鉄鎖を山頂に設置された。浄財を募り、素材を集め鋳造し、運搬、荷上げ、設置など…多くの苦労、筆舌に尽し難い苦労、年月があったであろうことは、想像に難くない。
このことからも播隆上人を支えたのは、広範な地域の多くの民衆の「願い・祈り」であったことがはっきりと判る思いが致します。