4番目には、冨谷 至氏(京都大学 名誉教授(中国法制史))から、『西域のロマンと史実 ~悲劇の将軍・李陵とかれの末裔~』と題した発表をいただきました。
【添付資料】
プロジェクタ資料:西域のロマンと史実‐悲劇の将軍・李陵とかれの末裔.pdf
席上配布資料:西域ロマンと史実‐悲劇の将軍・李陵とかれの末裔.pdf
漢武帝(BC141―88)の時代は、漢が北方異民族匈奴の戦争を経て、強大な帝国を確立した輝かしき時代であり、また西域シルクロードがこの時代から拓かれた。昭和の文豪中島敦の『李陵』は、漢と匈奴の戦争における、一武将の悲運を描いた歴史小説であり、菱田春草の絵画「蘇李訣別」も、同じ匈奴の囚われ人ではあるが、李陵とは異なる道を歩んだ蘇武と李陵のゴビ砂漠での別れの一コマを描いている。李陵の事件は、BC99~97あたりのことであるが、以後、李陵と蘇武の逸話は、西域のロマンという香りをもちつつ語り継がれていくとともに、異民族がシルクロードに勢力を伸ばす3世紀から5世紀にかけては、漢時代に対する歴史的憧憬を一層強くしていくのであった。そして、時代がくだった7世紀にはじまる唐王朝、王朝の創始者李氏は、李陵の末裔ともいわれる。それは西域ロマンの所産でもあった。(以上、「講演要旨」より。)
(以下、長くなりますが、配布資料から一部を転載します。行間を想い起してみてください。)
Ⅲ.武帝 第一次匈奴戦争(BC129―119)
【河西回廊の制圧】
衛青・霍去病の遠征、凱旋 → 河西回廊の制圧
亡我祁連山,使我六畜不蕃息
失我燕支山,使我嫁婦無顏色 (『史記』索隠所引『西河旧事』)
(我がを亡う,我がをして蕃息せざらしむ
我がを失う,我が嫁婦をして顏色なからしむ)
Ⅳ.第二次匈奴戦争(BC99―87)
大宛 汗血馬
重なる悲劇 → 貮師将軍 李広利、 李陵、 司馬遷
悲劇 ― その一
天漢3年(前99)、貳師将軍李広利を総大将とする3万の騎兵隊が、酒泉(甘粛省)から出陣した。帝国の総力をあげての匈奴潰滅戦争であったが、その折り、輜重隊長の役には満足できなかった李陵は、自ら武帝に申し出て、配下の歩兵5000人を率いて別働隊を組織し、西北ゴビの城塞居延(内モンゴル)から北に向かっていく。しかし、不幸なことに、匈奴の主力軍とぶつかり、孤軍奮闘、善戦したものの、軍は玉砕、李陵は匈奴の捕虜となってしまうという結果に終わる。
1年の後、李陵救出の軍が出されるが成功せず、しかも失敗の原因は李陵が匈奴に寝返ったからだとの誤報が伝えられたのである。反逆と見なされた李陵は、反逆罪に対して設けられた族刑(父母妻子兄弟が連坐して斬首となる)が適用され、家族は誅殺されてしまう。見方によれば、亡命者の反逆といったトラウマの犠牲であるのだが、李陵はそれを機に、実際に匈奴の側に寝返ってしまい、祖国には二度と戻らなかった。
李陵が匈奴の人となってしまった頃、漢からの使節として蘇武という人物が匈奴のもとにやってくる。ある事件に巻き込まれた彼は、そのまま匈奴に幽閉され、匈奴への亡命を強いられる。その説得役が李陵であったが、蘇武は最後まで応じず、漢への忠誠を貫き通し、苦節20年ののち、ようやく祖国に帰還した。ゴビを舞台とした二人の対称的な生き様、友情と別離を綴ったものが、「漠北悲歌」すなわち中島敦の『李陵』である。
悲劇 ― その二
李陵の悲劇は、別の今ひとつの悲劇を招来する。はじめ、李陵軍の善戦が伝えられた朝廷内では、彼に対して拍手喝采、皆が賞賛していたのだが、やがて玉砕の悲報が伝えられると、沈鬱な空気となり、さらに李陵捕虜の事実が判明すると、こんどは悪しざまに李陵を罵り、果ては罪人扱いするまでに変わっていった。その雰囲気のなかで、ひとり敢然と李陵の弁護にまわり、彼の奮闘を称え、捕虜になったとしても、かならずや匈奴に一矢を報いるに違いなく、またそのつもりで李陵は捕虜という屈辱に甘んじたのだと弁護したのが、司馬遷であった。そこまではよかったのだが、司馬遷は、その弁論のなかで、李広利に対する誣告罪を犯してしまう。具体的に司馬遷のどういった言辞が李広利を誣告したことになったのか、史書は黙して語らず、後世さまざまな憶説が出されている。ただ、李陵の善戦を主張することが、戦果なしに終わった総大将李広利をことさらに貶しめ、そこに誣告という虚偽の非難が生まれたことは、確かであろうし、史書もそう示唆している。誣告罪に問われた司馬遷に死刑が宣告されるが、死の代替として、宮刑、つまり性器を切除する刑が存在しており、司馬遷は、生き恥をさらすことを承知で、この忌むべき宮刑の道を選び、宦官となるのである。すでに取りかかっていた『史記』を完成させねばならない使命を果たそうという、苦渋の選択であった。
悲劇 ― その三
李陵に端を発し、司馬遷へと飛び火した悲劇は、今度は、李広利をも巻き込んでいく。後期匈奴戦争の総大将である李広利は、紀元前99年、97年と大軍をもって出陣したのであるが、いずれもさしたる戦果を得られずに戻ってきた。やがて、彼の女婿の父である丞相 劉屈釐が、皇太子擁立をめぐって冤罪を着せられ、李広利は、おのが大功をあげることで、劉屈釐を救わんとして、紀元前90年、4万の騎兵と9万の歩兵をもって出陣していく。しかし、功をあせったからか、結果としては敗戦を喫し、李広利自身も捕虜となってしまったのである。そして彼は、匈奴の祭祀における人身御供として非業の最期を遂げることになる。実はその裏には、匈奴単于(王)が李広利を気に入り、寵幸しつつあるのを妬んだ亡命漢人衛律が仕組んだ陰謀があったのである。圧倒的な優勢のうえで進められたはずの後期匈奴戦争、だれの目にも勝利は約束されたものと映っていた情況にあって、以上の事柄は、どうしようもない運命の成せる 悲哀、漠北悲歌そのものだった。
(以上、配布資料からの転載終了)
演者が著わした「ゴビに生きた男たち-李陵と蘓武」(白帝社、1994)を読まれた方も多いでありましょう。
武勇に優れ、匈奴から「飛将軍」と怖れられた李広(廣)は、涼州隴西の出身。李陵の祖父である。
五胡十六国の時代に西涼(400~421)を建国した李暠(りこう:字は玄盛)。彼もまた漢人で隴西出身。
次代は下り、やがて唐王朝の始祖 李淵、2代皇帝太宗(次男、李世民)の出現を見る。李淵の一族の出自は史書(『旧唐書』高祖本紀)では、五胡十六国の西涼の武昭王(李暠)の末裔で、隴西李氏の漢民族とされる。
(ご参考、配布資料より転載)
『漢書』李廣傳「李廣、隴西成紀の人。」
『晋書』李玄盛傳「隴西成紀の人。漢の将軍広の十六世の孫」
『旧唐書』高祖本紀「(李淵)、姓李氏、諱淵。其の先は、隴西狄道の人。涼武昭王暠の七代の孫なり」
五胡十六国の時代に「河西回廊」で栄えた国々、隴西の李氏の隆盛ぶりは、如何ばかりであったか!
李陵に関わる史実と伝説伝承について更なる研鑽の機会を得て、西域ロマンの完成する様を見てみたいと願っている。