1. ミャンマー自転車紀行、1011㎞
    〜全15行政区のうちシャン州やカレン州など9行政区を走行〜
     芳井 健一(サイクリスト、通訳案内士(Licenced guide)、会社員

     講演者は自転車で世界の街道を走破しており、ミャンマーへは過去3回、タイ国境でボーダーパスを取得し、日帰り入国したが、本講演では2012年の旧正月(1月下旬)、第4回目のミャンマー旅行について語られた。ミャンマーには外国人に開放されていない地域があるため、この旅は前半(シャン州ラーショウから世界遺産のバガンまで)と後半(カレン州パアン郊外からヤンゴンまで)とに分けて行った。辺境地帯のコントロールは今でも大きな課題のようである。旅の前半は昆明からマンダレーまで続くアジアハイウエイ14号線のミャンマー区間である国道3号線沿いに、雲南省に隣接する4つの行政区を走行した。一方、後半はアジアハイウエイ1号線の一部である国道8号線沿いに、タイに隣接する5つの行政区を走行した。ミャンマーの風土は高原、サバンナ・半砂漠、モンスーンと、地形も気候もバラエティーに富んでいる。ミャンマーは「敬虔な仏教徒の国」というイメージがあるが、国内各地にモスク、ヒンドゥー寺院、教会、観音寺があり、宗教には寛容な国がらである。騙そうとすることのない、温厚な人達。托鉢の子供たちに向ける眼差しは優しい。たくさんの写真により、その風土、人、食事など、素顔のミャンマーが紹介された。

  2. タイ王国の歴史と食文化
    ~タイ料理の特徴と地方色~
    酒井 美代子(アジア料理研究家、日本タイ料理協会理事、スタジオアロイ主宰)

     講演者は日本でまだタイ料理が知られていなかった1985~1989年、タイ王国に滞在し、タイ料理界の第一人者である国立技術大学のシーサモン助教授に師事。さらに王宮料理をプリンセス シーダから学んだ。アジアで唯一、外国の植民地になることなく、独自の文化と発展を遂げて来たタイ王国は、周辺の国々の影響を受けながら独特の食文化を育ててきた。13世紀初頭、中国雲南省辺りに住んでいたタイ族は南下し、現在のタイ国の地にあったモン族のドラバラディ国、マレー人のシュリービジャヤ国、クメール人のクメール国などと同化しながら、いくつかの小国家を形成していった。それらの小国家がまとまり、1238年、スコータイに最初の王朝ができ、これと併行して北部のチェンマイにはランナータイ王朝ができた。その後、アユタヤ、トンブリー、チャクリーの各王朝を経て、現在のタイ王国が形成された。これらの歴史をたどると、それに伴って培われた食文化の歴史が見えてくる。タイ料理の特徴は食材が豊富なこと。生のハーブを多用し、発酵調味料を使う。また、以下のように料理の地方色も豊かである。①タイ文化圏山岳民族の食事:焼畑の農産物を利用。②北部タイ(チェンマイ):ミャンマーの影響あり。カントーク料理(丸いちゃぶ台に乗せた料理)、カオソイ(カレーラーメン)が有名。③東北タイ(イサーン地方):ラオスやカンボジアの影響あり。ソムタム(青パパイヤのサラダ)、ガイヤーン(タイ風焼き鳥)が有名。④中部タイ:豊かで新鮮な食材が集まるバンコクが中心。カービング等で美しく盛り付けられた王宮料理。⑤南部タイ(ハジャイ):マレーシアの影響あり。シーフードが多い。たくさんの美しい料理の写真を使い、タイ料理の特色が説明された。

  3. 茶と雲南
    〜中国と日本の資料、医薬書から見える茶の姿〜
    岩間 真知子人間文化研究機構「アジアにおける「エコヘルス」研究の新展開」共同研究員

     雲南は茶樹の原産地と言われている。また雲南で造られる普洱(プーアル)茶は、独特の風味と効能で知られ、日本でもダイエット効果のある茶として人気がある。しかし雲南における茶の歴史については、あまり知られていない。講演者は中国の古典医薬書に雲南の茶の記述を見つけたのを端緒として、雲南の茶の歴史について、次のようにまとめられた。前漢代、雲南で既に茶樹の栽培が行われたといい、三国・魏の傅巽は「七誨」に南中(雲南と推察される)の特産品として「南中の茶子」と茶を挙げ、唐の王燾の医書『外台秘要方』(752年)も「南中の温茶は、多く喫してはいけない」と記す。一方、唐の陸羽は『茶経』(761年頃)において、茶の産地に雲南を挙げない。晩唐の樊綽は雲南の地誌『蠻書』で「茶は雲南の諸山で採れ、椒(さんしょう)や薑(しょうが)、桂(にっけい)と一緒に煮て飲む」と記す。元の『雲南志略』は茶の交易を記すものの多くはなかったようだ。明代から普洱茶は広まり、清代には皇帝にも献上され、政府は雲南に総茶店も作った。そして清代の最高の薬書『本草綱目拾遺』に、普洱茶は取り上げられるようになるのである。講演後半では茶の医薬としての性質が「温」(身体を温める)であるか、「寒」(身体を冷やす)であるか、が主題となった。古典医薬書によれば、緑茶は寒であるが、発酵加工された茶(普洱茶、武夷茶など)は温であるという。発酵により茶の成分(カテキン類)がどのように化学変化し、身体を温める効果をもつにようになったか、について考察が語られた。

  4. ネパール・ヒマラヤ地域における中国の開発案件と「仏教の政治」
    〜一チベット系民族集団の目線から〜
    別所 裕介駒沢大学総合教育研究部文化学部門 准教授

     講演者は過去20年以上にわたり、中国のチベット地域へ通い、研究を続けている。20世紀末以降、世界中に影響力を拡大してきた中国は、いま大きな社会の転換期にあるが、海を挟んだ東の隣人である日本人の中国理解は断片的な情報により、いつも限定されがちである。こうした状況を打開するには、有史以来、中国の西の隣人であったチベット系の人々の知恵を借りることが有効である。彼らが中国とインドという二大国の狭間で敬虔な仏教徒であり続けたことは、日本人の未来を考える上で示唆に富んでいる。講演では、中国が「アジア仏教の盟主」たることをうたってネパールとの国境地域で進めている開発案件を取り上げ、日本を含むアジア諸地域の「仏教をめぐる政治」の動態を幅広く視野に収めながら、ヒマラヤを越えて南アジアへ出ていこうとする中国の存在感が、ローカルなレベルでどのように受け止められているかについて、在地チベット系民族集団の目線からの検討が行われた。

  5.  日本人にとって山とは何か
    〜自然と人間、神と仏〜
    鈴木 正崇(日本山岳修験学会会長、慶應義塾大学名誉教授)

     変化に富む日本の山々は日本列島で生活する人々の精神文化を育み、その思想や哲学、祭りや芸能、演劇や音楽、美術や工芸の想像力の源泉となってきた。その中核には山に畏怖の念を抱き、祭祀や登拝を行う山岳信仰があった。人々は、神霊が降臨し顕現し鎮まる山、仏菩薩の居ます曼荼羅世界の山を祈願の対象とし、霊山・霊場・聖地としての山との共感や体験を通じて日々の生活を蘇らせた。山岳信仰は仏教と深く結びついているため、寺院は山号を持ち、山名には仏菩薩や仏教思想に因む名前が多い。日本の山の神は本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)の思想に基づき、本地の仏菩薩が権(かり)に姿を現して「権現」として垂迹するとされ、湯殿山大権現、戸隠山大権現などと尊称された。山岳登拝はかつては一年の特定期間に限定され、精進潔斎や水垢離で身を清め、白装束で登ったものであるが、近代以降、山は「登山」という娯楽とスポーツの場に変貌した。明治の神仏分離、近代アルピニズムの導入、モータリゼーションの発達が日本人の山に関する思考を激変させた。しかし、それは最近150年間の出来事に過ぎない。講演者はこのような山の精神史を振り返り、その根源にある自然と人間のありかたを見つめ直し、日本人にとって山とは何か、という命題について、多数の印象的な写真を使い、考察された。

    この記事は、AACK Newsletter 第82号に掲載された文章を加筆訂正したものである。

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