- 雲南から拉薩へ茶馬古道を辿る
〜滇藏公路(G214)から川藏公路南路(G318)へ〜
岩脇 康一(AACK、カワカブ会)
チベット自治区東部、特に三江併流一帯から然烏(ラウォ)あたりのカム地方は2009年以降入域困難になっている。2017年5~6 月にAACK会員小林尚礼氏主宰のカワカブ会企画の「徳欽から塩井(ツァカロ)経由約1週間で拉薩へ通過」する旅に参加した。久方ぶりにこの地域を通過する外国人の眼で見た状況を写真と映像で紹介された。
このルートは所謂「茶馬古道」で雲南と拉薩の隊商の交易の道であり、今回も公路の途中でそうした歴史に触れる機会が何度となくあった。道路は直線化、トンネル、架橋により中型バスでも殆どが高速走行可能である。過去「悪路」とされていたバルンツァンポ、通麦、ロンチュ谷付近も全く問題はない。昆明からの「白馬雪山峠」、拉薩からの「米拉」など、この地域周辺の大都市から入域する際の障害となる4~5000mの峠はトンネルでのショートカット化が進んでいる。拉薩~林芝間の片側2車線「林芝高速」は林芝側80kmが供用済で、全線開通に向け工事が進んでいる。瀾滄江横断点「竹卡」は街域が拡大し、怒江横断点には「怒江大橋」が建設中であった。カム地方の塩井、芒康、左貢、邦達、八宿、波密などでは大型建築物、ホテル、宿などが次々と建設されている。コンボ地方の林芝、八一、工布江達などは大々的な都市再開発が進行中である。
この地域には観光資源としての雅鲁藏布、南迦巴瓦や、登山愛好者としても魅力の未踏エリア、崗日嘎布山群、ラグー氷河、ミャンマー方面の山群などなど数多くあるものの、これら山南地区は外国人にとりまだ厳しい。一方で自然も極めて美しいG318沿線の大規模観光開発は、「波密米堆冰川景区」、「魯朗リゾート(広東資本)」、「巴松錯景区」など極めて立派で広大な施設が工事中、あるいは完成している。拉薩(貢嘎空港と青蔵鉄道)と林芝(米林空港) から入り然烏あたりまでの公路往復が一般的なようだ。G318沿道ではバイク、徒歩トレッキング、オートバイ、車で拉薩(あるいは凱拉什)を目指す数多くの若い人達~個人やグループの姿が印象的であった。中国で大ヒットした映画「拉薩への歩き方~祈りの2400km」の影響かもしれない。これらとは別に、本物の五体投地で目指す人達も1グループ見受けられた。
- アルタイ山脈のユキヒョウと遊牧民
〜生態観察、獣害対策、民俗伝承の複合型生物誌の研究~
相馬 拓也(早稲田大学高等研究所 助教)
講演者は第35回雲南懇話会でモンゴル西部のイヌワシを用いた鷹狩文化について講演されたが、今回はユキヒョウについての講演である。ユキヒョウは現在、モンゴル国内に600~900頭生息しており、絶滅危惧IB類に登録されている。最近、モンゴル西部の山地ではユキヒョウが頻繁に遊牧民に目撃されるようになり、2014年を境に遭遇事故、家畜の襲撃被害が急増している。これに対し遊牧民は、法律で保護されているユキヒョウを私的に駆除する等の応酬的措置をとるようになってきた。
講演者はユキヒョウと遊牧民の間の持続可能な共存圏の確立に向け、ホブド県の4ヶ村で保全生態学的調査を行った。調査は(1)ユキヒョウの生態行動観察、(2)家畜被害の現状と獣害対策、(3)ユキヒョウに関する伝承・儀礼等の調査、という3つの研究領域にわたる「複合型生物誌」調査である。(1)については、トラップカメラやドローンを用い、成獣13個体、幼獣4~5個体を特定した。(2)については遊牧民105世帯について聞き取りを行い、目撃180件、遭遇53件、仔馬の被害104頭(内、89頭が死亡)が得られた。最近の被害急増の原因として野生の草食動物が2009~2010年の雪害で多数死亡し、ユキヒョウの食餌環境が悪化したことや、保護政策によりユキヒョウが人間を恐れなくなったことが挙げられるが、一方、遊牧民側の原因も考えられる(ユキヒョウの餌になるタルバガンの乱獲、家畜の過大所有と過放牧、家畜防衛の怠りなど)。(3)については、ユキヒョウを狩猟で殺した場合に行われる「ユキヒョウ送りの儀」が多数確認された。この儀式は遊牧民がユキヒョウに対して抱く聖性・禁制の気持ちを象徴するものであろう。
現在、遊牧民の間には家畜被害に対する政府の対策遅れ、補償制度の不在について不満が募っているが、かつての遊牧民はユキヒョウによる家畜被害を「自然への返礼」と見る環境共生観・保全生態観を持ち、それを伝承や儀式を通じ伝えてきた。遊牧民がこのような観点に立ち返り、政府に依存するよりも、自ら能動的に家畜防衛に取り組むことがユキヒョウと遊牧民の望ましい未来につながるであろうと講演者は指摘する。
- 明治大学体育会山岳部『ドリームプロジェクト』を振り返る
〜部員・OBによるヒマラヤ8000m峰14座完登の軌跡〜
谷山 宏典(明治大学山岳部炉辺会、フリーライター)
明治大学山岳部、同OB組織である炉辺会によるヒマラヤ登山は1965年のゴジュンバ・カン(7646m)初登頂で始まった。炉辺会員による初めての8000m峰登頂は1970年、植村直己氏によるエベレスト登頂(日本山岳会隊)であった。以後、彼らはヒマラヤ登山隊を編成したり、他組織のヒマラヤ登山隊に隊員を派遣するなどして多くの成果を挙げてきた。
1997年、炉辺会はマナスルへ8名の登山隊を送り、同会独自の隊として初の8000m峰登頂に成功した。この時点で、同会員による8000m峰登頂は10座に達していた。そこで、数年後に控えた明治大学創立120周年(2001年)、山岳部創部80周年(2002年)の記念事業として、残る4座を登り、8000m峰全14座の登頂を達成しようという計画が立てられた。これが「ドリームプロジェクト」であり、1999年に発足し、2003年のアンナプルナI峰(8091m)登頂をもって完結した。その記録は講演者の著書「登頂八〇〇〇m-明治大学山岳部14座完登の軌跡」にまとめられている。講演者はドリームプロジェクトの一員であり、2001年のガッシャーブルムⅠ、Ⅱ峰の登頂者である。講演では14座の登頂の経緯が、登頂順を追って、写真やエピソードとともに紹介された。
明大山岳部では数年に一度、すべてをヒマラヤ登山に捧げる若者が出現したという。彼らが中核となってヒマラヤ登山が行われ、そこでの成功経験と自信はOBとなった彼らを更に8000m峰へと向かわせていった。このようにして炉辺会には8000m峰登山の技術と経験が継承・蓄積され、ドリームプロジェクトの成功へとつながっていったのであろう。「山岳部でしっかり国内登山の訓練を積めば、ヒマラヤに通用する」という言葉の重みを感じさせられた。
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モンゴルの馬乳酒の製造方法
〜遊牧知の検証〜
森永 由紀(明治大学総商学部/大学院教養デザイン研究科 教授)馬乳酒は古来、遊牧民が各家庭で馬の生乳を発酵させて作る、酸味のある飲料であり、アルコール度数は数%と低く、その効能は良く知られている。旧ソ連諸国、中国、ヨーロッパでは20世紀に進められた遊牧民の定住化政策の影響で馬の数が減り、今や馬乳酒は工場で製造される健康食品となっている。一方、遊牧が現在でも基幹産業であるモンゴル共和国では多くの地域で馬乳酒が生産されており、幼児も含め老若男女が大量に飲み、夏場は食事をとらずに馬乳酒だけで過ごす人さえいる。
講演者らは2012年にモンゴル気象水文環境研究所の気象観測網を利用して馬乳酒に関する全国調査を行った。多くの地域で馬乳酒が日常的に飲まれ、伝統的な製造法も残っていることが明らかになったが、馬乳酒はどこでも作っているわけではない。モンゴル中央部が主産地であり、名産地も多い。モンゴル東部は馬をたくさん飼っているが馬乳酒は作らない。講演者らは馬乳酒の名産地であるボルガン県モゴト郡の協力を得て、馬乳酒製造にまつわる自然科学的および文化人類学的研究を開始した。
2015年、明治大学に馬乳酒研究所が設立され、自然環境、栄養学、社会学などの研究者が参加し、学際的な研究が行われている。2016年にはモゴト郡で、試料収集を主目的とした馬乳酒品評会が開かれ、51家庭から馬乳酒の提供が得られた。今後、これらを試料とした科学研究が行われる。講演者らは遊牧民と「おいしい馬乳酒をどう作るのか?」という問いを共有している。遊牧民はおいしい馬乳酒を作りたい、振舞いたい、売って収入を得たいと願っている。講演者らは科学的な研究により、この問いの答えを見つけ出し、彼らに還元したいと願っている。
この記事は、AACK Newsletter 第83号に掲載された文章を加筆訂正したものである。