- トピックス「京でも見えたオーロラ-明和7年の巨大磁気嵐」
-2018年1月、文理融合シンポジウムの成果紹介-
山岸 久雄(国立極地研究所名誉教授、AACK)
東日本大震災の後、古い書物(日本三代実録)に貞観11年(869年)にも、陸奥の国を大津波が襲ったとの記載があることが広く報道された。最近、このように古典籍に書かれた天変地異の記録を地球科学的に見直し、そこから貴重な情報をとりだそうという試みが行われている。そこでは文系と理系の研究者の協力が必須となる。総研大 学融合推進センターは2018年1月、「古典籍文理融合シンポジウム」(立川市)を開催し、このような研究の成果を発表した。講演者はそこで発表された研究の一つ、「日本で見られるオーロラと巨大磁気嵐」(片岡龍峰、岩橋清美)について紹介した。
旧暦明和7年7月28日(1770年9月17日)、日本国内の各地で赤気(赤いオーロラ)が見られたことが多くの古い書物に遺されている。松阪市教育委員会所蔵の「星解」という書物に載ったオーロラのスケッチを分析すると、このオーロラは京都上空まで達していたことがわかった。この日、中国、ヨーロッパ、そして南半球でもオーロラが見えたことが世界各国の古い書物に遺されており、大磁気嵐が発生していたことがわかる。
歴史上最大の磁気嵐は1859年に発生したキャリントンイベント(天文学者キャリントンが太陽面を観測中に大爆発が目視され、その翌日、地球は大磁気嵐に襲われた)とされているが、この時はオーロラが北緯30度付近まで到達した。明和7年の磁気嵐は、これに匹敵する緯度でオーロラが見られたことになる。
片岡らは、地球磁場の強度は過去数世紀にわたり減少傾向にあり、明和7年当時の地球磁場はキャリントンイベント時よりも強かったことに気付き、これを考慮して計算すると、明和7年の磁気嵐はキャリントンイベントを凌ぐ、歴史上最大の規模であった可能性が高まった。このような知見が得られたことは、古典籍を地球科学の視点で読み解くことの成果の一つといえよう。
- ヒマラヤ氷河研究最前線」-2009年のヒマラヤ氷河スキャンダルとその後の展開-
藤田 耕史(名古屋大学 大学院環境学研究科教授、笹ヶ峰会)
IPCC 第四次報告書のヒマラヤ氷河に関する記述に誤りがあることが2009年、Science 誌上で指摘され、「ヒマラヤ氷河スキャンダル」もしくは「グレーシャーゲート」などと呼ばれた。その後,同報告書には他にも信頼性に乏しい記述があることが明らかになり、IPCC 全体の信頼性を揺るがす一大スキャンダルとなった。
藤田教授は、同報告書のヒマラヤ氷河に関する問題箇所の改訂を行った国際研究チームの一員を務めた、第一線の雪氷学研究者である。本講演ではヒマラヤ氷河スキャンダルの経緯と原因、IPCC の対応を説明した後、このスキャンダルをきっかけに、世界の氷河研究コミュニティがヒマラヤを含むアジアの高山域氷河に注目し、その後の数年間で多数の研究成果が得られたことを紹介した。
アジア高山域の氷河の消長(質量収支)は、世界の海面の高さに影響するほか、その融解水は下流の河川流域に住む17億人の生活に利用されるなど、社会的な関心は高い。ヒマラヤ氷河スキャンダル後に得られたアジア高山域氷河の広域質量収支の研究は手法で分けると(1)現地観測、(2)モデル計算、(3)人工衛星観測(重力による氷河質量観測、氷河表面高度観測)があり、その研究成果は藤田教授の総説論文(註1)に詳しく紹介されている。
重力観測衛星は、広域にわたる氷河の総質量変動を測定することができるが、湖水に流入し蓄えられる氷河融解水の質量も含めて測定してしまうため、氷河変動量が少なめに見積もられる傾向がある。衛星に搭載したレーザー高度計による氷河表面高度観測は、比較的狭い範囲の氷河の消長を、より正確に測ることができ、東ヒマラヤでは顕著な氷河縮小が見られ、カラコルムでは氷河が微増するという地域差が明瞭に検出できている。これらの衛星観測に基づく研究結果は、いずれもヒマラヤの氷河は、世界の他の氷河に比べ著しく減少しているわけではないということを示しているが、見積もられた氷河減少量は、研究手法により数倍の開きがある。
藤田教授は、今後の研究課題として、見積の精度を上げてゆくには、質量収支の素過程を現地調査で明らかにしてゆくこと。特に涵養域である標高の高い氷河や、デブリで覆われた下流域の氷河での現地調査が極めて重要であることを指摘した。このようにアプローチが難しいヒマラヤの氷河に、確かな登山技術をもった雪氷学研究者が赴き、現地調査に活躍することに、心から声援を送りたい。
(註1)藤田耕史,20014:ヒマラヤ氷河スキャンダルとその後,雪氷,76,69-78. - 「通える夢は崑崙の 高嶺の彼方ゴビの原」-李陵説話と西域慕情-
冨谷 至(龍谷大学教授、京都大学名誉教授)
冨谷名誉教授は本講演の1年前、第40回雲南懇話会で「西域のロマンと史実」‐悲劇の将軍・李陵とかれの末裔-という演題で、BC100年頃の漢の武将、李陵にまつわる悲劇について講演された。匈奴との戦で勇敢に戦った李陵は捕虜となり、不屈の精神でその境遇に耐えていたが、李陵が寝返ったとの誤報が漢に伝わり、これを信じた武帝は李陵の一族を反逆罪への連坐として族刑(斬首)にしてしまう。これを知った李陵は匈奴に寝返らざるを得なくなり、二度と祖国に戻ることはなかった、という悲劇である。当時は逆臣とされた李陵であったが、その後、時代が下るに従い、李陵悲話伝説が生まれ、悲劇の英雄へと評価が変わっていった。本講演では、このような評価の変化がいつ生じたのか、また、その社会的背景は何であったのか、について語られた。冨谷名誉教授の第40回と第44回懇話会での講演内容はヒマラヤ学誌の最新号に掲載されている(冨谷,2019、註2)。ご一読願いたい。以下、本講演の要点を上記論文より引用させていただく。
漢帝国の滅亡の後、華北の地は異民族が支配し、漢人は揚子江流域~江南一帯へ追いやられ、東晋王朝を建てるに至った(南北朝時代)。南の漢人らは、いつの日か華北を奪還したいと願っていたが、圧倒的な力を持つ北方騎馬民族を前に、それは見果てぬ夢であった。しかし、華北の地で豪族として勢力を維持していた漢人の一族(隴西の李氏)もあり、その代表は李玄盛であった。李玄盛は西暦400年に西涼を建国し、東晋に恭順の意を伝える使者を送った。
南の漢人にとって、見果てぬ夢の地、華北で活躍する李玄盛は英雄と映った。史書には、李玄盛は李陵一族と同じ隴西の出身であり、李陵の祖父、李広将軍の十六世の孫、という記述がある。李陵の時代から500年経ち、逆臣のイメージが風化した頃、李陵一族の末裔が華北に英雄として登場した。南の漢人は改めて李陵の悲劇を思い出すことになり、これが李陵悲話伝説となっていった。
南の漢人にとって、自分達の祖先が活躍した華北や西域は、遥か彼方の地であり、現実とはかけ離れた想像の世界であった。唐詩には西域を抒情をこめて詠う「西域詩」というジャンルがあるように、西域は物語、詩文の世界となっていった。しかし、その想像の世界の強さは歴史家の目を曇らせ、歴史の解釈に影響を及ぼすほどになった。本講演では、その例を二つ挙げられた(冨谷,2019)。なお、冨谷論文には詩文集『文選』に載っている「李少卿答蘇武書」(李陵が、おなじく匈奴の捕虜となった蘇武に送ったとされる書簡)の全文訳が載っている。そこに漂う西域慕情を読みとっていただきたい。
(註2)冨谷至,2019:西域ロマンの成立,ヒマラヤ学誌,20号,75-83. -
「尾瀬と共に54年」-札幌、京都を結んで-
平野 紀子(尾瀬沼畔 長蔵小屋三代目)片品村は群馬県の北北東に位置し、新潟・福島・栃木の各県に接しています。標高は大よそ1000m(最高2,578m、最低640m、役場所在地813m)。片品村戸倉の戸数は約40戸ほどです。
明治22年8月、平野長蔵は、僅か19歳で燧岳に独りで登頂し、登山道を拓きました。同年9月には再び30人の信者と共に燧岳を登頂し、石祠を建祭しています。勿論、それまでに本人は独学で木曽の御嶽行者について神道の道を学んだ訳です。小学校は3年までしか行けなかった貧農の子でありながら、漢学と日本の古典を深く愛し、神道に仕える頑固一徹な人でした。
長蔵は学生を可愛がりました。長蔵の夢は、将来、尾瀬沼畔に学生村を作り、質実剛健な気を養うことにありました。嘆願書を作り、入山してくる人たちに賛同を呼び掛けました。大正から昭和初期という時代背景、置かれた厳しい環境を考えると、長蔵は、相当な人だったと思います。
2代目長英は、日光今市で育ちました。大正7年尋常高等小学校高等部卒業(今の中学2年)、尾瀬沼に入ります。一労働力として連れていかれ、約60年間、尾瀬で暮らす訳です。
『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』(庄田元男訳,講談社学術文庫,2017年)を見ると、アーネスト・サトウ(通訳官、駐日英国公使)は、当時の片品村村長の家に泊まっています。村史を調べたところ明治30~32年頃に、日光・金精峠から尾瀬、八十里越えを経て新潟に抜けています。彼の次男、武田久吉先生が、明治38年(1905年)に尾瀬に入り「尾瀬紀行」を著わし、日本山岳会「山岳」(創刊号、1906)に掲載されました。その紀行文を読んだ画家の大下藤次郎さんが、1908年6月下旬~7月初旬の頃に4人で尾瀬に入り写生旅行をしました。大下藤次郎さんは、今でいう水彩画家、水絵ですね。彼は、1905年に「みづゑ」という美術雑誌を創刊し、その臨時増刊号に尾瀬特集号として尾瀬の作品群を紹介された。この時初めて、尾瀬が世間に知られることになりました。東京の山登りしている人たちの眼に触れ、徐々に入山してきました。
(‐中略— 紀子さんの祖父母、ご両親、北海道新聞社入社後のご自分の働く様子、山登り
のこと等が語られた。長靖さんの小学・中学・高校生時代の様子、尾瀬沼のダム計画、など
も語られた。)
長靖は、長英の長男として片品村に生まれました。昭和29年に京都大学に進み、昭和34年北海道新聞社に入社。紀子は、昭和31年入社。長靖が入社した昭和34年頃は安保闘争の時代、組合も元気な時代でした。平野と同じ青年部の役員になった訳です。長靖は、長蔵小屋を継ぐ予定は無かった。しかし、後継ぎと目されていた弟が、静岡の海岸で急逝。母靖子には、「山の人間なので、海には行かない」と言っていたのだそうですが。
長靖が昭和38年に尾瀬に戻ってきた時、尾瀬はゴミの山だった。本当にひどかった。長靖は、“長蔵が小屋を開き燧岳を開山したから、こうなった”と言って、毎日腕組みしては燧岳の方をじっと見つめて苦しんでいました。昭和41年、山岳観光道路の建設工事が始まり、どんどんどんどん三平峠への道を壊していきました。そしてついに、“私たちがいつもヨイショっといって腰を下ろし寛いでいた岩清水”を壊してしまいました。長靖は堪えられなくなって、朝日新聞の声欄に投書しました。「岩清水が枯れます。皆さん、助けてください」。でも全然反応がありませんでした。
そうこうしている内、7月1日、環境庁が発足。初代長官に就任した大石武一は、「私は、日本の自然を守るために力を尽くします。」と述べた。このコメントを母靖子が見て、「この方にお頼みしてはどうか」と言いました。長靖は単身上京し、大石長官のご自宅を訪問。私も一緒しました。ご自宅には大きなコケシ人形が二つありました。それが、非常に印象的でした。何と、大石長官は1週間後に現地視察することになりました。至仏山から尾瀬ヶ原を望み、尾瀬沼、最後に三平峠に来ました。視察を終えた大石長官は長靖を呼び、「この道は止めようね」と言って下さった。環境庁の地元への説得により、工事は確実に中止されました。
長靖が亡くなったのは、今でいう過労死ですね。山にいたその晩はもの凄い雪だった。戸倉でも凄い雪だった。それでも翌日に東京で予定された自然保護の集いに出席するために、(昭和46年12月1日朝)下山しました。夏なら、長蔵小屋から30分ちょっとで沼畔の三平峠下、それが峠下到着は正午近く。大阪工業大学の学生が三平峠にテントを張っていて、その人たちのトレースを利用したのですが、三平峠に17時少し前、一ノ瀬に21時頃ようやく辿り着きました。付き添っていた大阪工大の学生に「私は長蔵小屋の息子です。こんな形で死ぬのは恥ずかしい。」と言いながら、子供たちの話をして、最後に「生涯に悔いはなかった」と言って息を引き取りました。36歳でした。
私は、30歳の若さで山のような借金と3人の幼児を抱えてしまいました。祖父母は孫の世話、私は借金返済。歯を食い縛るもの凄い日々。毎日、1日が終わると、「あァ、今日も1日、無事に終わった」、この連続でした。生きていて一番うれしかったことは、「やれた」ということ。「1年間!あァ、自分に出来た!」。それには、昔から働いていた2人の番頭の助けがありました。桧枝岐からひとり、67歳で退職。片品村からひとり、通称すけさん(79歳)。すけさんは今も戸倉で畑仕事をしてくれてます。
(‐中略‐ 佐藤栄作総理と大石武一環境庁長官、長男太郎さん(4代目)、長蔵小屋で働
いた人たちのその後、現在の利用者数と経営のこと等が語られた。)
私は今、無給で働いています。息子がボケ防止のために働けと言うものですから。でも、あそこで働けるということは「神様、ありがとう。素晴らしい。」と私は思います。長蔵お爺さんも、たった一人でやっていたんだ。本当に貧しいけれど、暮してた。良いじゃないか!4.は講演の要点を口述に沿ってまとめたものです。