3番目に、平野 紀子 氏(尾瀬沼畔 長蔵小屋三代目)から、『尾瀬と共に54年 〜札幌、京都を結んで〜』と題した発表をいただきました。

【添付資料】

席上配布資料ー尾瀬と共に54年〜札幌、京都を結んで〜参考資料「尾瀬に死す」平野長靖.pdf

席上配布資料ー尾瀬と共に54年〜札幌、京都を結んで〜参考資料「尾瀬」.pdf

席上配布資料ー尾瀬と共に54年〜札幌、京都を結んで〜参考資料「尾瀬での医学医療的注意点の特徴」清水信三.pdf

 片品村は群馬県の北北東に位置し、新潟・福島・栃木の各県に接しています。標高は大よそ1000m(最高2,578m、最低640m、役場所在地813m)。片品村戸倉の戸数は約40戸ほどです。
明治22年8月、平野長蔵は、僅か19歳で燧岳に独りで登頂し、登山道を拓きました。同年9月には再び30人の信者と共に燧岳を登頂し、石祠を建祭しています。勿論、それまでに本人は独学で木曽の御嶽行者について神道の道を学んだ訳です。小学校は3年までしか行けなかった貧農の子でありながら、漢学と日本の古典を深く愛し、神道に仕える頑固一徹な人でした。
 長蔵は学生を可愛がりました。長蔵の夢は、将来、尾瀬沼畔に学生村を作り、質実剛健な気を養うことにありました。嘆願書を作り、入山してくる人たちに賛同を呼び掛けました。大正から昭和初期という時代背景、置かれた厳しい環境を考えると、長蔵は、相当な人だったと思います。
2代目長英は、日光今市で育ちました。大正7年尋常高等小学校高等部卒業(今の中学2年)、尾瀬沼に入ります。一労働力として連れていかれ、約60年間、尾瀬で暮らす訳です。
 『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』(庄田元男訳,講談社学術文庫,2017年)を見ると、アーネスト・サトウ(通訳官、駐日英国公使)は、当時の片品村村長の家に泊まっています。村史を調べたところ明治30~32年頃に、日光・金精峠から尾瀬、八十里越えを経て新潟に抜けています。彼の次男、武田久吉先生が、明治38年(1905年)に尾瀬に入り「尾瀬紀行」を著わし、日本山岳会「山岳」(創刊号、1906)に掲載されました。その紀行文を読んだ画家の大下藤次郎さんが、1908年6月下旬~7月初旬の頃に4人で尾瀬に入り写生旅行をしました。大下藤次郎さんは、今でいう水彩画家、水絵ですね。彼は、1905年に「みづゑ」という美術雑誌を創刊し、その臨時増刊号に尾瀬特集号として尾瀬の作品群を紹介された。この時初めて、尾瀬が世間に知られることになりました。東京の山登りしている人たちの眼に触れ、徐々に入山してきました。
(‐中略— 紀子さんの祖父母、ご両親、北海道新聞社入社後のご自分の働く様子、山登り
のこと等が語られた。長靖さんの小学・中学・高校生時代の様子、尾瀬沼のダム計画、など
も語られた。)
 長靖は、長英の長男として片品村に生まれました。昭和29年に京都大学に進み、昭和34年北海道新聞社に入社。紀子は、昭和31年入社。長靖が入社した昭和34年頃は安保闘争の時代、組合も元気な時代でした。平野と同じ青年部の役員になった訳です。長靖は、長蔵小屋を継ぐ予定は無かった。しかし、後継ぎと目されていた弟が、静岡の海岸で急逝。母靖子には、「山の人間なので、海には行かない」と言っていたのだそうですが。
 長靖が昭和38年に尾瀬に戻ってきた時、尾瀬はゴミの山だった。本当にひどかった。長靖は、“長蔵が小屋を開き燧岳を開山したから、こうなった”と言って、毎日腕組みしては燧岳の方をじっと見つめて苦しんでいました。昭和41年、山岳観光道路の建設工事が始まり、どんどんどんどん三平峠への道を壊していきました。そしてついに、“私たちがいつもヨイショっといって腰を下ろし寛いでいた岩清水”を壊してしまいました。長靖は堪えられなくなって、朝日新聞の声欄に投書しました。「岩清水が枯れます。皆さん、助けてください」。でも全然反応がありませんでした。
 そうこうしている内、7月1日、環境庁が発足。初代長官に就任した大石武一は、「私は、日本の自然を守るために力を尽くします。」と述べた。このコメントを母靖子が見て、「この方にお頼みしてはどうか」と言いました。長靖は単身上京し、大石長官のご自宅を訪問。私も一緒しました。ご自宅には大きなコケシ人形が二つありました。それが、非常に印象的でした。何と、大石長官は1週間後に現地視察することになりました。至仏山から尾瀬ヶ原を望み、尾瀬沼、最後に三平峠に来ました。視察を終えた大石長官は長靖を呼び、「この道は止めようね」と言って下さった。環境庁の地元への説得により、工事は確実に中止されました。
 長靖が亡くなったのは、今でいう過労死ですね。山にいたその晩はもの凄い雪だった。戸倉でも凄い雪だった。それでも翌日に東京で予定された自然保護の集いに出席するために、(昭和46年12月1日朝)下山しました。夏なら、長蔵小屋から30分ちょっとで沼畔の三平峠下、それが峠下到着は正午近く。大阪工業大学の学生が三平峠にテントを張っていて、その人たちのトレースを利用したのですが、三平峠に17時少し前、一ノ瀬に21時頃ようやく辿り着きました。付き添っていた大阪工大の学生に「私は長蔵小屋の息子です。こんな形で死ぬのは恥ずかしい。」と言いながら、子供たちの話をして、最後に「生涯に悔いはなかった」と言って息を引き取りました。36歳でした。
 私は、30歳の若さで山のような借金と3人の幼児を抱えてしまいました。祖父母は孫の世話、私は借金返済。歯を食い縛るもの凄い日々。毎日、1日が終わると、「あァ、今日も1日、無事に終わった」、この連続でした。生きていて一番うれしかったことは、「やれた」ということ。「1年間!あァ、自分に出来た!」。それには、昔から働いていた2人の番頭の助けがありました。桧枝岐からひとり、67歳で退職。片品村からひとり、通称すけさん(79歳)。すけさんは今も戸倉で畑仕事をしてくれてます。
(‐中略‐ 佐藤栄作総理と大石武一環境庁長官、長男太郎さん(4代目)、長蔵小屋で働
いた人たちのその後、現在の利用者数と経営のこと等が語られた。)
 私は今、無給で働いています。息子がボケ防止のために働けと言うものですから。でも、あそこで働けるということは「神様、ありがとう。素晴らしい。」と私は思います。長蔵お爺さんも、たった一人でやっていたんだ。本当に貧しいけれど、暮してた。良いじゃないか!

以上は、講演の要点を口述に沿ってまとめたものです。

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