1.東ブータンの土着信仰 —シャショッパの事例から-
渡邉 美穂子(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程(講演当時))
ヒマラヤ山脈東端に位置するブータンは敬虔なチベット仏教徒が多いこと、国民総幸福(Gross National Happiness)政策により、国民の幸福度が高いことで知られており、約80万人が暮らしている。渡邉さんは、首都から車で二日かかる東ブータンの人々の土着信仰を調査している。ブータンには約400もの土着神がいるが、東ブータンのタシガン県一帯ではアマ・ジョモという女神が大きな影響力をもっている。この地域には公用語ゾンカとは異なるシャショップという言語を話す人々がおり、シャショッパ(「東方の人」の意)と呼ばれる。その中でも、メラ、サクテン地域のブロッパという部族はアマ・ジョモとともにチベットからやってきたという伝承を持つ。そして、そのアマ・ジョモ信仰は、メラ、サクテンの麓の村々にも根づいている。シャショップは文字の無い言語だが、彼らはアマ・ジョモ信仰の儀式やストーリーを親から子、子から孫へと代々語り伝えてきた。渡邉さんは、それらを彼らから直接聞き取り、また地域の儀式に参加して調査を行ってきた。
調査地の一つであるラディ地域ではラカン(仏教寺院)の中に、土着神を祀るゲンカンという施設が併設されており、そこにはアマ・ジョモを中心に、メメ・ダンリン(アマ・ジョモの夫、あるいは弟)や土地の神々が描かれている。アマ・ジョモにまつわる伝承には、土着神がアマ・ジョモと戦い、最後には手を組むといったストーリーが豊富に遺されており、アマ・ジョモ信仰が在来の土着信仰と融合しつつ、今日まで守られてきた様子が伺える。
もう一つの調査地であるカリン地域では、仏教寺院ボカラカンの中に建てられたゲンカンにアマ・ジョモとメメ・ダンリンが祀られており、毎年5月末にジョモ・セカという儀式が、メメ・ダンリンの直系子孫といわれるメメ・ドルジ氏により執り行われてきた。その1週間後には、同地のダンリン湖でダンリン・セカという儀式が行われる。このように、カリン地域では、儀式を実践することにより、アマ・ジョモ信仰を伝えるという特徴がみられる。アマ・ジョモ伝承に詳しいのは年長者であるが、彼らはシャショップしか話さない場合が多い。そのため渡邉さんは、バラエティーに富むアマ・ジョモ信仰のストーリーを、彼ら自身の言語、シャショップで記録しておきたいと考えている。
2.私のフィールドノート -岩木山からヒマラヤ・チベット、白神山地、津軽の山々-
根深 誠(記録作家、津軽百年の森づくり代表、明治大学山岳部炉辺会)
根深さんは1970年代よりヒマラヤ遠征を多数行い、1986年ゴッラゾム(5600m級の無名峰、廣島三朗氏の命名。パキスタン)、1988年シャハーン・ドク (6194m、パキスタン)等、未踏峰6座に初登頂している。1973~74年の冬、アンナプルナとダウラギリ山群に挟まれたトゥクチェ村に滞在した根深さんは、住民から「エカイ・カワグチ先生」の話を聞いた。言うまでもなく、明治時代に仏教の原典を求め、当時禁断の地であったチベットにヒマラヤの峠を越えて潜入した河口慧海のことだ。根深さんは北隣りのジョムソン村に行き、その先のムスタン地方(当時、外国人は入域禁止)の岩石砂漠の山並みを眺めながら、慧海が越えた峠は一体どこなのか?その経路を、いつか自分で調査してみたい、と思いを馳せた。本講演で根深さんは、自らのライフワークとなったその調査の概要を淡々と語られたが、配布資料(『岳人』2019年2月号、空白の地図-ネパールとチベットの国境をゆく-)には、調査の詳しい経緯と根深さんの熱い思いが語られている。
ムスタン地方は1991年秋、外国人に開放された。翌1992年の夏、さっそく同地を取材旅行で訪れた根深さんに、ネパール政府は特段の配慮をもって、当時未開放であったトルボ地方入域の許可を与えた。根深さんはかつてのヒマラヤ登山で苦楽をともにした1人のシェルパを伴い、大峡谷を通り抜け、5千m級の峠をいくつも越え、トルボ地方奥のチベット国境に向かった。国境には、西からクンラ、マンゲンラ、エナンラ、マリユンラという4つの峠があり、そのどれかを慧海が越えたと思われた。慧海の「チベット旅行記」に記載された峠のチベット側の2つの池の形(長方形と円)と、同地に伝わる神話との整合性から、この時はマリユンラを越えたと推定したが、マリユンラから望見した池の形はよくわからず、一抹の不安が残った。この調査の様子は「遥かなるチベット」(山と渓谷社、1994年刊)にまとめられ、第4回JTB紀行文学大賞を受賞している。
その後、2004年に慧海の姪である宮田恵美さんから、慧海が当時書いた日記のコピーを入手することができた。さらにネパールが近年作成した地形図やランドサット衛星写真、GPS端末などを用意し、2005年と2006年、根深さんは再びチベット国境に向かった。慧海の日記の峠越えにあたる部分は黒く塗り潰され、判読不能であったが、その前後の記述は参考になった。衛星写真による池の形、峠に至る道の住民からの聞き取り、現地調査を考え併せると、慧海はマンゲンラを越えたとするのが最も合理的と根深さんは結論づけた。
この調査に先立つ2002~2004年、根深さんはトルボのツァルカ村に3年がかりで鉄橋を架ける工事を支援した。その経緯は根深さんの著書『ヒマラヤにかける橋』(みすず書房、2007年刊)にまとめられているが、本講演では、この工事の様子を映像で詳しく紹介された。根深さんと 地元住民との交流の深さに心を打たれた。(後日談:根深さんは2019年6月~8月に慧海の越境ルートの再調査を行い、現段階の推理としてムィコーラからラルラ(現地名:ゴップカルラ)を越え、クンツォ~ネーユ~白巌窟に至るルートを想定されている。)
3.「穴」と「箱」の来歴:カトマンズ盆地の道ばたから
古川 彰(関西学院大学社会学部教授、山岳部長、AACK)
古川さんは社会史と自然史をつなぐエスノグラフィー(行動観察調査)、すなわち人と自然の関わりや、その変遷過程を、人の暮らしの側から分析する調査を行ってきた。本講演では、カトマンズ盆地に4世紀頃から暮らすともいわれる先住民「ネワール」の王都であったパタン市の旧市街(1979年に世界文化遺産に登録)の路傍に点在する、ジャルンと呼ばれる石の「箱」と、ガーと呼ばれる「穴」の由来と現状が語られた。
ジャルンは広場の道端や街角に建てられた石造りの給水所であり、朝一番に井戸から汲んだ水を入れ、旅人らの喉を潤してきた。その建造の歴史は古く、5、6世紀まで遡る。ジャルンは街の名士が亡くなったり、伝染病などの災厄が起きたあと、コミュニティや遺族、篤志家が記念として建立したもので、20世紀半ばまで作られてきた。2005年の調査時にはパタン旧市街に106基のジャルンがあり、その内、毎日給水されているのは5基であった。ジャルンの数は年々減少しており、2015年には96基、2017年には73基となった。
一方、「穴」(ガー)には、いろいろな種類があり、それぞれ固有の名前(ブンガー、サガー、ナウガー、デョガー、チャサ、カラン・・・)が付いており、街区の辻ごとに配置されている。たとえばチャサと呼ばれる穴には、生まれた時の後産や通過儀礼の儀式で使われた供物、死者が使っていた布団や衣類などが入れられてきた。ガーは本来、深い穴であったが、現在では浅いものになっており、単に場所を示す印だけが残されているものもある。ガーがいつ頃から使われ始めたのか明らかではないが、今でも蒲団や後産の壺などを見ることがあり、実際に使用されている。本講演の配布資料には、出産時や死亡時にガーに何を、どのように置くのか、当事者であった人たちへのインタビューが載っている。また、ガーに置かれたものを片付けるカーストの人へのインタビューも載っている。
長い間、ネワール伝統文化の一端を形作ってきた「箱」や「穴」であるが、近年、自動車の増加に伴う道路整備、世界遺産にふさわしい街並みの整備、衛生環境の向上要請、民主化によるカーストの役割の終焉など、様々な理由により、その姿が街角から、そして人びとの記憶から消え去ろうとしている。
4.映像・トークショー: 生きるって、なに? -自分らしく生きて、自分を好きになろう!-
たかの てるこ(地球の広報・旅人・エッセイスト)
たかのさんは「世界中の人と仲良くなれる!」と信じ、7大陸・70ヵ国を駆ける旅人である。代表作『ガンジス河でバタフライ』はドラマ化もされ、著書多数。映画会社に勤めた後、独立し、世界の魅力を伝える“地球の広報”として、全国での講演、メディア出演など幅広く活動。そして、AACKの高野昭吾会員のお嬢さんである。
たかのさんが登壇し、軽妙に語り始めると会場の雰囲気は一変した。彼女は学生時代、人と比べて自分をダメな人間だと思い、“自分イジメ”をしていたが、20歳の時、勇気を振り絞って海外ひとり旅へ。今までの人生では、学校でも職場でも上下関係があったのに、旅先での出会いでは、どんな人とも年齢や出身、肩書きなど関係なく、ありのままの、等身大の、生身の人間として出会うことができた。そして、日本の常識=世界の常識ではないことを知り、初めて「自分の欠点は全部、長所なんだ」と自分自身を受け入れることができるようになった。
チベット文化圏を旅したときは、仏教徒たちが「生きとし生けるもの」の幸せを祈っていることに衝撃を受けた。「自分の願い事をする必要はないよ。世界の平和には、君のことも含まれてるんだ。世界が平和になれば、君も自動的に幸せになるのに、どうして自分ひとりだけ幸せになろうとするんだい? 君の幸せと世界中の人の幸せは繋がっているんだよ」と言われ、目からウロコがぼたぼた落ちた。私がひとりでは幸せを感じることができないように、他の人だって自分ひとりでは幸せを感じることはできない。私の幸せは、他の人の幸せとも密接に繋がってる! と腹の底から思った、といった体験を語った(紀行本『ダライ・ラマに恋して』のエピソードより)。
独立後、大学でも教えることになった彼女は、教え子から「生きる意味がわからない」と悩みを打ち明けられた。前向きな心が湧くような文章をと思い、彼に送った文章を元に、写真絵本『生きるって、なに?』を500円で自費出版。講演後の販売会で、かなり多くの人がこの本を手にし、私もその一人であるが、本を読んでたかのさんの思いをより深く理解できた。「生きるって、なに?」という、幼い子どもが抱くような素朴な問いかけに、「それは、自分をまるごと愛すること」「それは?」「自分を大事にすること」と問答のように続いていく。「生きている」ということは、人とつながり、世界とつながっていることであり、すべての人類の歩み、すべての自然、すべての源である宇宙ともつながっているということが、彼女が撮影した世界中の素敵な笑顔写真とともに伝わってくる。(後日談:その後、写真絵本シリーズは、第2弾『逃げろ 生きろ 生きのびろ!』、第3弾『笑って、バイバイ!』を含め、累計16万部超のヒットに。書店やアマゾンでも購入可)