1. トピックス「南極隕石が教えてくれる太陽系の歴史」
     山口 亮(国立極地研究所 地圏研究グループ准教授

     山口准教授は南極で隕石が見つかる理由、隕石の特徴、隕石から知る太陽系の歴史、小惑星探査に関わる最近のトピック等について語られた。石質隕石、鉄隕石の現物も持参され、講演後、間近に観察することができた。
     今から50年前(1969年)、日本の南極観測隊が南極大陸上の「やまと山脈」付近で偶然、隕石を発見したことがきっかけとなり、以後、たくさんの隕石が南極で見つかっている。これまで世界で見つかった隕石は62,000個近くであるが、そのうち60%以上が南極で見つかっている。何故、南極で隕石が見つかりやすいのか?それは、南極氷床には隕石を集積する作用が働くからであり、その機構を図解して説明された。
     1969年は、惑星科学にとって記念すべき年であり、宇宙物質研究の夜明けの年であると言う。1969年2月には大量(2トン以上)の隕石がメキシコに落下し、7月にはアポロ11号が月面に着陸し、試料を採取。そして12月には第10次南極地域観測隊が「やまと山脈」付近の氷床上で偶然9個の南極隕石を発見したからである。これらの隕石の大部分は、火星と木星の間にある小惑星帯からやって来たものであり、一部、彗星起源のものもあると考えられている。今から46億年前、太陽の周りを回る原始太陽系星雲から微惑星が生まれ、それらが衝突合体することで大きな惑星に成長していった。その時、惑星になり損ねた生き残りが小惑星である。従って、隕石を研究することは、その起源である小惑星、つまり地球の原材料を研究することになり、太陽系ができあがる歴史を知る手だてとなっている。
     最近、太陽系形成の新たな仮説が提唱されているとのこと。太陽系誕生の数百万年後、巨大惑星(木星など)が急成長し、太陽系内を移動した。これに伴い、微惑星が太陽系全域にまき散らされ、それらが衝突合体して現在の惑星が作られていったという説である。このような研究は数多くの太陽系物質(隕石など)を研究することで、初めて可能になったものであり、今後も数多くの南極隕石を採集し、研究することで、太陽系形成過程の詳細に迫りたい、と話しを結ばれた。
     本講演会には第10次観測隊員として南極隕石を初めて発見した上田豊氏が来場されており、上田氏から発見当時の様子を語っていただくことができた。

  2. 「インド北東部 インパール・コヒマの今 —人々の暮らしと祭礼—」
    東苑泰子(地球の旅人

     インド北東部にあるインパールとコヒマは、ミャンマーとの国境地帯にあり、様々な少数民族が住んでいる。第二次世界大戦中、日本軍と連合軍が死闘を繰り広げたそれらの町、及び周辺地域では、現地の人々に当時の日本兵の存在が記憶され続けている。2019年6月頃、日本兵の血で赤く染まったという「レッドヒル」の近くに戦争博物館が開設されたという。
     現在、インパールとコヒマは、それぞれインドのマニプリ州とナガランド州の州都となっている。東苑氏は、山に囲まれた盆地のインパールで、メイテイ族の尊老が管理する自宅兼ゲストハウスに滞在し、親戚の間で行われる行事(毎年9月、10月に行われる先祖を祀る祭)や近所で行われたメイテイ族の結婚式、町を挙げて開催される季節の祭り(ヒヤンタン寺院の秋祭り)に参加することが出来た。一方、山沿いのコヒマでは、乗合いバスで偶然に隣り合わせたナガ族の若い母親のアパートにお世話になり、ナガランドの部族が一堂に会するホーンビル・フェスティバルを体験し、堪能することができた。
     本講演では、これらの祭りの様子とともに、現地の人々との交流を通じて体験した各部族の暮らし、伝統文化、彼らが抱える生活実感、町の風景などを紹介された。映像・画像に見る穏やかで和やかな暮らしぶり、敬虔な祈り(儀礼)、昔とさして変わらぬであろう長閑な田園風景…・・・。(会場での質問に答えて、コヒマに住むチベット族の長老に照会したところ)ナガランドに住んでいるチベット人は、100人くらいいる。チベット出身者は、1980 年代からコヒマやディマプールなどの町に住んでいる。大きなコミュニティーではないので、チベット寺院は無く、お祈りや行事のために部屋を借りているとのことであった。
    (以下は前田の感慨です)脳裡を過ぎるのは、その対極ともいうべき日英両軍の戦闘、雨季に入り敗残の日本軍兵士が辿った山路・大河の渡河・タイ国への道、タイ国内の撤退路(総称して所謂、白骨街道)である。
    2019年8月17日、NKK-BSで「戦慄の記録 インパール」と題する2時間に及ぶ番組が再放送された。戦闘直後の日本兵の死体、きちっとした軍装にハエが集る様子が映写された。作戦中止、即ち撤退を開始してからの死者の数が夥しく急増していく様が青色で点描された。痛ましいこと限りなし。

  3. 「多田等観と宮沢賢治 —チベットに捧げた人生と西域への夢‐ 」
    髙橋 信雄(花巻市博物館長

     高橋氏はチベット仏教学者・多田等観と宮沢賢治、その二人をつなぐ島地大等について、貴重なスライドを交え、以下のように語られた。
     多田等観は1911年、秋田中学を卒業後、西本願寺に入山。大谷光瑞の意向で1年間、チベットからの留学生と随行者3人の世話をしながら、チベット語を習得し、翌年、帰還する留学生に付き添ってインドに渡った。1913年、西本願寺からのチベット入蔵命令書を受け取り、単独でヒマラヤ(ブータン)を越え、チベットに入った。チベットでの等観は、ダライ・ラマ13世の庇護の下、約十年間修業し、外国人としては初めての最高学位ゲシェ-(大僧正)に任じられた。帰国に際し、大乗経を始め、数々の仏典、仏画、仏像等を持ち帰った。帰国後、等観は東京帝大の嘱託や東北帝大、東京大学の講師を歴任。「西蔵大蔵経総目録」等の作成により1955年、日本学士院賞を受賞した。等観の持ち帰った資料や、帰国後ダライ・ラマ13世の遺言で送られてきたチベットの秘宝といわれる「釈迦牟尼世尊絵伝」は戦火を免れるため、等観の弟が住職を務める花巻の光徳寺に送られ、現在では花巻市博物館が保管。随時公開されている。
     多田等観をチベット滞在中から支援し、帰国後も世話をしたのが盛岡市願教寺の住職であり、東京帝大教授でもあった島地大等である。大等は第1次大谷探検隊の隊員であり、宗派にとらわれない各宗派に通じた仏教学者であった。自身は浄土真宗の僧侶でありながら、天台哲学の権威でもあった。
     童話作家・宮沢賢治は、盛岡中学を卒業後、大等が著した「漢和対照妙法蓮華経」に出会い、感銘を受け、法華経信者となる。賢治の作品の中には、西域異聞三部作童話(雁の童子、インドラの網、マグノリアの木)に見られるように、西域の地名やチベットを窺わせる情景の表現がしばしばみられる。賢治は島地大等を介して、多田等観が見聞した世界に大きな影響を受けたのであろう。

  4. 「生と死のミニャ・コンガ(7556㍍、中国四川省)〜39年間の物語〜」
    阿部 幹雄(写真家・ビデオジャーナリスト、北海道大学山とスキーの会、雪崩事故防止研究会代表、日本雪氷学会雪氷災害調査チーム前代表

     ミニャ・コンガ(7556㍍、四川省)をめぐる長い物語は、阿部氏の少年時代の石鎚山登山、山に開眼した北大山とスキーの会での活動の話しから始まった。1980年、ミニャ・コンガ偵察のため、阿部氏は同峰の東側山麓の村を訪問した。阿部氏らは同村を50年ぶりに訪れる外国人だった。その日、村に初めての自動車が走り、車に乗った阿部氏らは大群衆に囲まれた。
     1981年、北海道山岳連盟はミニャ・コンガ登山隊を派遣。登山隊の行動をふりかえると、4,000mの高度で各自30kgの荷を担いで歩行するなど、高度順応には向かない方針が採られることがあった。これを含め、山行中に嫌な予感を3回感じたという。その予感は現実のものとなった。頂上直下、1本のロープにつながった8名の隊員の内、1人が滑落。他の隊員も次々に引きずられ、滑落する仲間を確保しようとした隊員は、空中に弾き飛ばされてしまった。阿部氏はたまたま、このロープに連なっていなかったため、滑落はまぬがれ、1人生き残ったが、その後の行動中、クレバスにかぶった新雪を踏みぬき、体が落ち込み、脱出できなくなる。登頂隊の安否を心配し、下のキャンプから上がってきた1人の隊員の献身的な努力でクレバスから脱することができた経緯を冷静に語られた。
     事故の9年後、阿部氏は登山を再開したが、高さを求めず、垂直から水平方向の探検へと志向を変えた。1995年、遭難した登山隊の遺品が出現したとの報を受け現地に赴き、遺体捜索を行う。その後、2009年まで4度にわたり遺体捜索・収容を行い、遺体は現地で荼毘に付し、遺骨、遺品を遺族のもとへ届けたという。慰霊のため遺族を現地に案内すること、6度に及んだ。大遭難の中で1人生かされたことの意味を自問する阿部氏にとって、この困難な仕事に取り組むことは、その答を得るプロセスでもあったろう。その献身的な努力には頭が下がる。阿部氏はこの間、山岳狩猟民族イ族が暮らす村の変容を30年にわたり見てきた。彼らは火縄銃を携え、狩猟と薬草採取のために山に登る生活をしてきたが、現在は近代化が進み、電化製品と携帯電話が普及している。現地には観光ホテルが林立し、ロープウェイが建設された。
     阿部氏は2007年から3年連続して南極観測隊に参加した。昭和基地から700km離れたセール・ロンダーネ山地での長期キャンプ生活を伴う広域地学調査に登山の専門家として参加し、隊員の安全と生活を守る任務についた。困難な自然環境の中、誰ひとり事故に遇うことなく調査成果を上げ、任務を全うできたのは、ミニャ・コンガの遭難と真摯に向き合った阿部氏ならではのものであったろう。阿部氏は親交のあった上田豊氏(Yalung Kang(8505m)初登頂者、本会会員)から贈られた“生きて帰れ”のひと言を胸に、ミニャ・コンガに向かったが、南極での隊務の最後に、上田氏が25年前に拓いたルートを逆にたどる旅をすることができ、感無量であったという。ミニャ・コンガで始まった長い物語は、2010年、南極の話しで結ばれた。

     

    この記事は、AACK Newsletter 第91号に掲載されたものである。

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