1. 「雲南中華世界の膨張、絶え間なく移住する人々 ‐ 石屏県とプ-アル茶を巡る歴史の中で‐」
    西川 和孝(早稲田大学非常勤講師

     西川氏は、中華世界の周辺部である雲南省南部、石屏県に入植した漢人の活動を通じ、彼らがどのように周辺地域に浸透し、中華世界を膨張させていったかを、以下のように語った。
     石屏県は雲南省から貴州省へ広がる高原の南縁部にあたり、その95%は山地で占められ、残る5%が石屏盆地となっている。ここは非漢人の住む土地であったが、明朝初期(14世紀)から漢人の入植が開始された。石屏盆地は西から東に向けゆるく傾斜しているため、盆地東側の出口には水が集中しやすく、たびたび洪水に見舞われた。石屏漢人は、初めに緩やかな傾斜地で耕地開発を行うが間もなく開発は頭打ちとなる。そこで官主導で大規模低湿地開発を実施し、同時に河川の浚渫、竜骨車による排水などの治水工事を進めた。そして、こうした過程で石屏漢人は高度な土木技術を身に付けていった。
     また、石屏漢人は土地資源の効率化を狙い、綿や麻などの工芸作物の栽培や手工業を盛んに行い、豊かな経済力を背景として多くの知識人を輩出した。しかし、明末(17世紀初頭)には土地資源の開発は限界に近付き、石屏漢人は周辺地域への移住に活路を求めた。有力な移住先となったのは、古くから六大茶山と呼ばれ、プーアル茶の栽培で名高い西双版納(シープソンバンナー)タイ族自治州の猛臘県であった。当時、茶栽培は地元の少数民族が担っており、栽培方法は原始的で、品質も安定していなかった。石屏から移住した漢人たちは石屏盆地で習得した工芸作物の栽培技術をプーアル茶の栽培に応用し、高品質の茶を安定に栽培することに成功し、現地社会で存在感を示すようになった。
     そして栽培技術を武器に、地域住民(少数民族)と婚姻を結ぶなど関係性を深め、茶山の周辺地域に茶栽培を普及させていった。経済的に豊かになった漢人は高利貸を手掛けるようになり、地元民との摩擦が強まった。反乱が起き、清朝政府が鎮圧に乗り出し、漢人商人の営業を制限することもあったという。
    (以下、山岸の感想)このような話を聞き、現在も膨張を続ける中華世界のルーツを見る思いがした。
    参考:西川和孝著「雲南中華世界の膨張」-プーアル茶と鉱山開発にみる移住戦略(慶友社、2015年)

  2. 「七つの大陸の最高峰を訪ねて‐山岳部復活を目指したドリーム計画-」
    落合 正治(神奈川大学体育会山岳部総監督

     落合監督は、神奈川大学山岳部OB会の中心メンバーである。同山岳部OB会が、現役部員と一体となって山岳部を復活させていった経緯を次のように語った。
     今から20数年前、神奈川大学山岳部の最後となる部員から歴代リーダーへ、「我々が卒業すると部員はゼロ。休部となり、数年後には廃部手続きとなる」との連絡が入った。歴代リーダー数名が集まり協議したが、解決の糸口は見つからず、諦めかけていた。そうした中、この事情を聞きつけた数名のOBから、山岳部復活を支援するため、OB会を再編すべしとの声が上がった。これに応え、同OB会は神奈川大学校友会に同期同好組織として登録し、再出発することになった。
     しかし、山岳部復活への道は遠く不透明であった。最大の難関は、ロートルOBが「どうやって新入部員を確保するか」という点であったが、近隣大学山岳部員とOB会員子女の協力により3名の新入部員を確保することができた。OB会は指針として、新入部員に部活動を通じて楽しさと厳しさを体験してもらうとともに、現役部員とOB会員が大きな目標を共有することが重要と考え、夢実現計画ドリーム21~夢抱き、夢育み、夢実現~として、七大陸の最高峰制覇(いわゆるセブンサミッツ計画)を提唱した。
     10代から70代の隊員で編成される遠征隊を組織し、人材や資金確保など多くの難問を乗り越え、2002年~2009年の7年間で、単独大学としては世界初のセブンサミッツ制覇を成し遂げた。講演では七つの大陸の最高峰が、現役部員とOB会員のチームにより毎年、ひとつづつ登られてゆく経過がスライドで紹介された。
     神奈川大学山岳部は現在、部員30名を数えるが、その内、登山(アルパインスタイル)を指向する部員は7名で、その他はクライミング、トレイルランを指向する部員である。同大学では早い時期から学内にクライミングウォールが設置され、毎年、これを使ったクライミングコンペが、日本山岳会青年部・学生部主導の下、全国から70名近い学生を集め実施されている。 
     部員減に悩む大学山岳部が多い中、なぜ神奈川大学山岳部はこれほど多くの学生を惹き付けることができるのか?という質問に対し、落合監督は、現在の多様化する登山の形態に対応した活動プログラムが用意されていること、学生が登山の魅力に気付き、目覚めるのを支援していることを挙げた。
     落合監督は同山岳部卒業後、アマゾン・オリノコ河踏査隊の隊員となり、同地を長期にわたり調査・探検した。このとき、現地の自然から多くを学び、目覚めたと語ったが、この経験が、同山岳部・OB会の高い目標設定、学生自身の覚醒をうながす指導のあり方に反映されていると感じた。神奈川大学山岳部・OB会は次なるプロジェクト:夢無限~G&G計画~(世界のGreat Summits 10峰、ヒマラヤGiants 14座を登頂する)の実現に向け、活動を続けていくとのことである。

  3. 「スマトラ・カリマンタンの低湿地と地球環境問題‐泥炭湿地をはいずりまわる‐」
    嶋村 鉄也(愛媛大学大学院農学研究科准教授

     最近、世界各地で大規模な森林火災が報道されている。嶋村氏の研究フィールドであるインドネシアの熱帯泥炭湿地林の火災もその一つであり、1997年の大規模火災ではインドネシア一国で0.8~2.6ギガトンの炭素が大気中に放出された。これは世界全体の年間化石燃料消費量の13~40%に相当するという(Page et al., Nature, 2002)。
     熱帯低湿地の水が溜まりやすい場所では植物遺体の分解が抑えられ、泥炭層となって堆積する。その厚さは10mを越え、最厚部が20~30mに達するドーム状地形を形成する場合も多い。一般的に、森林での樹木が占める空間密度は0.8%程度となっているが、泥炭湿地林では地下のほぼ100%が植物遺体で埋め尽くされるため、地下の炭素蓄積量は地上に比べ膨大になる。そのため泥炭層が火災を起こすと大量の炭酸ガスが排出され、地球環境に深刻な影響を及ぼすわけである。
     野外調査フィールドとしての熱帯泥炭湿地林は、世界最悪の環境と言える。高温、多湿。ありとあらゆる毒虫と吸血動物。地盤は軟弱で、樹木根の無いところへ足を踏み出せば膝から股下まで潜ってしまう。嶋村氏は学生時代、熱帯での研究にあこがれ、アジアアフリカ地域研究研究科生態環境論研究室のドアを叩いた。教授は嶋村氏の風貌を一目見て、この過酷なフィールドに耐えられる人物と見込み、彼をそこに送り込むことにしたという。
     現在、熱帯泥炭湿地林は、地球温暖化との関連から、その炭素蓄積量や収支動態への関心が高まり、多くの研究がなされるようになった。しかし、その生態系の研究は殆ど手つかずで、嶋村氏は学生時代以来、一貫してこの未開の研究分野に取り組んできた。その研究成果の一端として、泥炭湿地林の開花結実の時期が、雨期に伴う水位上昇や動物による捕食と深く関わっていること等を紹介した。
     また、泥炭湿地林の開発に伴う環境問題についても語った。開発にあたり、森の樹木は皆伐され、湿地に排水路が掘られ、泥炭地は乾燥化する。農地に転換するため泥炭に火入れが行なわれる。しかし、農地として使い物にならない場合も多い。例えば1995年、政府が行った大規模水田開発では、100万ヘクタールの土地のうち、その大部分が、繰り返す火災によって放棄された。放棄された泥炭地はチガヤが繁る荒廃地となり、乾燥した泥炭が火災を起こしやすい危険な土地となる。
     地球環境を守る観点からは、このような荒廃地の原状回復が望まれるが、地元住民は環境問題よりももっと差し迫った問題を抱えている。元の森林を回復させるには数十年の歳月を要すが、まずはこの期間、地元社会が安定に維持されることが先決である。また森林を管理するには、生物の営みについての基本的知見も必要になる。それゆえ泥炭湿地林を巡る環境問題は、温室効果ガスや炭素動態のみの問題ではなく、生物・環境・人間社会の総合的な問題として捉えるべきである、と嶋村氏は強調する。

  4. 「冬山登山の実像∸黒部川横断、冬劔、冬薬師、そして海外の山々—」
     山本 宗彦(明治大学体育会山岳部(前)監督、炉辺会、日本山岳会副会長、日本・ネパールカンチェンジュンガ登山隊(JAC、1984年)隊員

     山本氏は明治大学山岳部を卒部した後、同部のコーチ、監督(2005~2017年)を長く務め、2019年より日本山岳会の副会長を務めている。同氏は多くの高度な海外登山(ボゴダⅡ峰初登、レーニン峰・コミュニズム峰登頂、カンチェンジュンガ南峰(8250mまで)、主峰(8300mまで)、マッシャーブルム北西壁初登攀、ブロードピーク、ラカポシ東峰、チョモランマ東北東稜の登頂、マカルー東稜下部初登攀など)、冬期の剣岳、黒部横断登山などを重ね、60歳を迎えた現在でも重荷を背負い、若い仲間と冬の剣岳や、その周辺の登山を続けている。これらの山々の素晴らしいスライドとともに語った同氏の言葉は含蓄が深く、共感を呼ぶものであった。その一端を当日の配布資料を参考に、紹介したい。
    ・私は13歳の秋に、登山を自分の生活の軸にすることを決め、明治大学山岳部を目指すことにしました。そのためには明大附属高校に入るのが早道で、その入試に必要な3科目だけを中学で勉強し、入学することができました。
    ・私は13歳の秋に登った秩父御岳山を自分の登山の第1回目として記録を取り始め、2019年最後の山行が733回目となりました。その中で、私にとってはマッシャーブルム北西壁初登攀も秩父御岳山も同じ1回であり、同じように価値ある登山です。
    ・私にとっての登山は、自然の中に自ら分け入り、山に登る素朴な行為であり、ひたすら自身の価値観を具現化し続ける信仰のような行為です。いつのまにか、その信仰は47年ほどになりました。
    ・自分で考え、自分で決め、自分で実践することが登山の基本であり、自分で作ったルールを自分で守りながら登る行為は、自由ということの究極な表現であり、一つひとつの登山は、あたかも作品の様なものかもしれません。
    ・既存のルートから外れた日本の冬山は「不安・不快・不便」が際立ちます(これに比べれば、ヒマラヤは快適です)。日本の雪山はヒマラヤと異なり、毎年、夏には雪が消え、冬には雪が積もる繰り返しで、毎年状態が変わり、一度でも同じ冬の剱岳に遭遇したことはありません。未知への遭遇があり、新しい発見があります。
    ・私は冬の剱岳と大学山岳部の合宿で出会いました。五六豪雪(註1)と呼ばれた年の冬に赤谷山から剱岳まで縦走したことが今の登山の原点の様に感じます。まだまだ未熟な大学3、4年生の山岳部員が、あの状況の中で計画を完遂して無事に下山できたことは、運に恵まれたことも否定できませんが、同時にそれを実現した思 
     考と歴史は自分の血肉であり、私の登山の土台となっています。
    ・「藪山からヒマラヤへ、そして冬の剱岳へ」という私の登山は、現代のスマートでファッショナブルな登山とは程遠く、地を這うようで泥臭いものです。同じことを繰り返す愚直な行為ですが、その行為を通じて、決してお金では買うことのできない、誰からも盗まれることのない宝物を得ることができたように感じ、山と登山という行為に感謝しています。
    その他、大切なこと、大事にしていることとして、「家族の理解」、「事故を起こさない」、「一緒に登る仲間がいること」を挙げ、雪崩などの事故を未然に防ぐために「雪の声を聴けるようでありたい」と語った言葉が印象的であった。
    (註1)五六豪雪:昭和55年12月から56年3月にかけ、東北地方から北近畿までを襲った記録的豪雪。この冬の降雪量は福井市で昭和38年の596cmを超え、622cmを記録。昭和61年の豪雪と並び、歴代1位である。

     

    この記事は、AACK Newsletter 第92号に掲載されたものである。

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