山岸久雄

第52 回雲南懇話会は2020 年12 月12 日(土)、JICA 国際会議場(東京・市ヶ谷)で開催されました。コロナ禍の下、約1年ぶりの講演会となりました。コロナ感染予防の観点から会場定員が半分に抑制されたため、通常より少ない54 名の参加となりました。その講演概要を以下に紹介いたします。

  1. 「極寒のドルポ越冬 122 日間の記録」
    ネパール探求家、美容師 稲葉 香
     ドルポはネパール北西部に位置する平均標高4000mの山間地域で、東西南北のどこから入るにも標高5000m以上の峠を越える必要がある。稲葉さんは2019年11月11日に日本を発ち2020年3月11日に帰国するまでの間、このような厳しい自然環境の村で約3ヶ月にわたり越冬した。講演では越冬を志すに至った経緯、越冬計画と準備について説明した後、越冬生活の様子を映像で紹介した。
     稲葉さんは2007年から2016年にかけて、4度にわたりドルポ地域を横断する旅行を体験し、その厳しい自然環境に魅了された。この地域で冬の生活を体験したいという気持ちが募ったが、すぐには決心できないでいた。そんな中、2018年に西北ネパールのフムラ地方で約1ヶ月の単独キャラバンを行った。この旅は無人地帯での2週間の活動を含み、ネパール側からカイラス山を遠望。ナムナニ(7694m)、グナラ(6902m)を展望し、名もなき湖を探ね、全行程は250kmに及んだ。この旅を無事に完遂できたことでドルポ越冬の決意がかたまった。
     ドルポ地域は冬、完全に周囲から隔絶される。稲葉さんは自分の滞在が現地の負担にならないよう、入念な準備を行った。越冬拠点をサルダン村と決め、越冬期間は3ヶ月になると見込んだ。その期間に必要な燃料、食料を事前に手配し、夏の間にサルダン村にデポしてもらった。計画案として、雪が降り積もる前にドルポに入域し、越冬中は雪の状況を見ながら、近郊の村の訪問や河口慧海師の越境ルートの再確認を行い、またニサル村の冬の大祭、ロサル(お正月)を見学、サルダン村の日常生活、気候状況などを記録することにした。これら、計画した調査項目は全部で42にのぼった。準備の経過と越冬中の様子が美しいスライドで紹介されたが、特に冬の大祭の動画が印象的であった。

  2. スライドショー「西ネパール辺境に魅せられて-ドルポ、ムスタン、フムラ訪問の記録-」
    稲葉香
     稲葉さんが西ネパールを最初に訪問したのは2007年。西ネパールの第一人者、故大西保氏が隊長を務める西北ネパール登山隊への参加だった。その隊では河口慧海師の足跡の再調査、未踏峰カンテガ(アッパードルポのティンキュー村付近、6060m)登頂など、貴重な経験を得ることができた。続いて2009年、同じく西北ネパール登山隊に途中から参加し、ムグ〜ドルポを横断した。これらの遠征で経験した「探検家の足跡」、「未踏峰」、「無人地帯」、「横断」が以後の稲葉さんの山旅の関心事となった。稲葉さんは2012年以降、自ら遠征を立ち上げ、西ネパールに通い撮影を続けている。これらの山旅の写真や動画はBGM付きのスライドショー(1)~(4)にまとめられたが、講演時間の制約により(2)は割愛し、(1)、(3)、(4)が上映された。
    (1)シェイフェステイバル(2012年、ドルポにて撮影)
    シェイフェステイバルは12年に一度、チベット歴7月の満月を中心に1週間行われるチベット仏教の巡礼祭であり、起源は800年前に遡る。2012年は丁度、その年にあたり、貴重な撮影の機会となった。
    (2)アッパームスタンのハイライト映像集(2014、2016、2017年、アッパームスタンにて撮影)
    (3)河口慧海師の道(2016年、ドルポ及びムスタンにて撮影)
    河口慧海師が越境した足跡を忠実に国境まで歩き、国境からはドルポ内部を横断し、ジョムソンへと58日間で500kmを歩いた記録の中から、国境までの映像を上映。
    (4)フムラ、バラサーブ・レイクを探して(2018年、フムラにて撮影)
    ドルポ越冬の決意を固めてくれた2018年の西北ネパールの山旅(1.に記載)の映像。

  3. 「ツキノワグマと出逢ったらどうする」
    東京農業大学森林総合科学科山﨑晃司
     動物生態学を専門とする山﨑さんは、最近問題となっているツキノワグマによる人身事故に関連し、次のように語った。ツキノワグマと人との軋轢、特に人身事故の増加が社会的な問題となって既に10数年が経つ。特に2016年以降は人身事故の増加が著しく、毎年のように事故が起きている。クマの捕獲数も多い状態が続いており、2019年には5,000頭以上が捕殺された。
     このような状態になった背景として、中山間地域の集落が過疎化、高齢化し、かつて人が活動する場であった里山や耕作地が使われなくなり、そこに森林が復活し、クマが活動する場になったことが挙げられる。その結果、クマの活動域と人里が直接、接するようになり、クマと人が遭遇する機会が増えることになった。よく言われる「奥山のクマの生育環境の質が低下した」との指摘は当たっておらず、どんぐりなどの食物不足も、特定地域・特定時期における原因にはなっても、全体を説明する理由にはなり得ない。
    クマは九州では1940年代に絶滅し,四国でも絶滅寸前となっているが、本州には世界でも希な、数万頭の集団が棲息している。本州では、今や「森のあるところにはクマがいる」と考えて行動することが必要である。2020年、上高地のキャンプ場で起きた人身事故はクマがキャンプ者の食糧を狙ったことが原因であった。北米では自然公園でキャンプする際は、食糧をクマが開けられない容器(ベアプルーフコンテナ)に収納することが数十年前から常識となっているが、日本でもこのような対策が必要であることを、この事故は教えてくれた。
     本講演のタイトルは「ツキノワグマと出逢ったらどうする」であるが、実は、クマに出逢ってからの対策はお薦めできない。「クマに出逢わないよう、最大限の努力をする」ことが肝心であるとのこと。講演後、それでもクマに出逢ったらどうしましょうと山﨑さんにお尋ねすると、クマスプレイは有効である。ただし、事前の練習が必要である。クマスプレイが無い場合、顔を守りうずくまる姿勢をとることを推奨された。
     ツキノワグマは人よりはるか昔、数十万年前から日本の自然に適応し、世代交代を繰り返してきた「先輩」であり、日本の多様な生態系の一部を担っている。クマのような大型動物の住む森を歩く楽しさを今後も残していけるよう、われわれに何ができるか考えることが必要だと山﨑さんは語る。

  4. 「鷹と生きる-東北・山形での鷹狩と暮らし-」
    鷹使い松原英俊
    聞き手:明治大学体育会山岳部ヘッドコーチ・炉辺会、フリーライター谷山宏典

     「鷹と生きる-鷹使い・松原英俊の半生」(山と渓谷社、2018)を書いた谷山さんによれば、日本の鷹狩は長い歴史をもち、歴代の天皇、戦国武将、徳川将軍家や大名など、その時々の権力者に愛好されてきた。しかし、明治になると鷹狩りには二つの潮流が生まれる。一つは権力者の鷹狩文化を受け継いだ「鷹匠」の流れで、小型のオオタカが使われてきた。もう一つは東北地方の山間農村で発達した狩猟の流れで、大型のクマタカが使われた。昭和の半ばまで、クマタカを使ったウサギ猟は冬ごもり中の副業として儲かる仕事であり、鉄砲撃ちを上回る数の「鷹使い」がいた。しかし、鉄砲の性能が向上するにつれ、鷹よりも鉄砲の方が効率的となった。鷹猟は次第に割の合わない仕事となり、「鷹使い」の数は減っていった。現在、日本でクマタカを使って実猟ができる「鷹使い」は松原さん唯一人となった。松原さんは1974年、「最後の鷹猟師」と呼ばれた沓澤朝治氏に弟子入りし、翌年に独立。以後、山中の小屋でクマタカと「鷹一羽、人間一人」の生活を送りながら独学で鷹狩の技術を身に付けた。本講演で松原さんは、独学中の苦労や、独立後4年目にして初めて獲物を手にした時の感動を語った。また、クマタカを獲物に向け飛び立たせる度に、そのまま去ってしまうのではないか、と心配したそうである。松原さんはその後、月山の麓の山形県朝日村(現・鶴岡市)田麦俣に移り、結婚し、息子が生まれた。現在は天童市田麦野という山村に暮らしているが、この40年、毎年冬になると鷹とともに山に入り、狩りを続けている。彼はずっと「鷹狩をすること」「鷹とともに生きること」を自分の人生の中心に据えてきた。
     松原さんは雑談的にご自分のエピソードも語った。学生時代、山歩きの途中でつかまえた蛇を下宿で飼い、共に生活していたが、それが逃げ出し大騒ぎになったこと、北海道で登山ガイド中にヒグマを発見。間近で見たくなり、お客を放ったらかしにしてヒグマを追跡してしまったこと等々。動物への深い好奇心と確かな観察眼はファーブルの昆虫記を思わせる。この感性が長年にわたる鷹との暮らしを支えてきたのではないだろうか。クマタカ猟の継承についての質問があった。弟子入りを志す人はいたが、未だ適性のある人には出会えていないとのこと。また、猟に使うクマタカを得ることや飼育することも、とても難しいそうである。

  5. 「昨今の日本のエネルギー事情を考える―揺れ動く国際エネルギー情勢を俯瞰して―」
    一般財団法人石油開発情報センター多田裕
     多田さんは石油公団、その後、関係法人で石油・天然ガスの資源開発にかかわる仕事を長年続けてきた。その経験をもとに、日本のエネルギー事情、世界のエネルギー情勢、将来の見通しを、最新の図表を使い俯瞰的に語った。
     日本は世界でも有数の技術力、経済力を備えた国に成長したが、国内のエネルギー資源は乏しく(2000年代の一次エネルギー自給率は20%以下)、大半のエネルギー資源を国外に依存する。そのため国際情勢の変化により資源供給が脅かされたり、価格高騰に苦しめられることがよく起きた(1970年代の中東戦争による第1次オイルショック、イラン革命による第2次オイルショック等)。こうした問題を解決するため、政府は1973年に資源エネルギー庁を設置し、エネルギー資源の安定供給のため、自主開発、省エネ、資源備蓄、資源の多様化、特に原子力発電の導入や天然ガスシフト等を積極的に進めた。
     一方、20世紀後半に入ると、世界の経済活動増大による大気中炭酸ガス濃度の急上昇が地球温暖化、気候変動を招き、人類の生活環境に悪影響を及ぼすことがわかってきた。世界各国政府は1995年の第1回気候変動枠組条約締結国会議、1997年の京都議定書、2015年のパリ協定等を通じ、数値目標を掲げて炭酸ガス排出の削減に取り組むことになった。これにより世界的に脱炭素、再生可能エネルギーの導入促進といったエネルギー需給構造の変革が発生し、産業界はこれに沿ってビジネスモデルを見直すようになり、これに投資する金融機関の対応も活発化している。このような情勢の中、2011年、東日本大震災が起こり、福島原子力発電所の大事故が発生。原子力発電を大きな柱としていたわが国のエネルギー供給計画は大きな見直しを迫られている。
     国際エネルギー機関は将来のエネルギー需給を予測するため、以下の4つのシナリオに基づき数値予測を行った。1:各国が公表済みの政策目標に沿うシナリオ(コロナ禍の需要低下が2023年に回復すると想定)、2:同上(需要低下が2025年に回復すると想定)、3:パリ協定に基づく政策を推進するシナリオ、4:2050年にカーボンニュートラル(炭酸ガス排出量を実質ゼロにする)を達成するシナリオ。
     その予測によれば、今後10年間の世界の電力需要増加の80%は再生可能エネルギーが担い、中でも太陽光発電がその中心となる(現在、ほとんどの国で、火力発電所新設よりも太陽光発電設置の方が発電コストは安くなる)。化石燃料の内、石炭の需要は今後低下する。火力発電燃料に占める石炭の割合は2019年の37%から、2030年には28%、2040年には20%以下になる。天然ガスの需要は今後増加する。石油は今まで世界のエネルギー源の中核をなしてきたが、2030年までに需要の伸びは止まると予測される。
     このような脱炭素化に向けた世界的な技術革新、エネルギー需給の変化に対応するため、日本政府は2020年10月、現エネルギー基本計画(2018年7月閣議決定)の見直しを決めた。さらに菅首相は10月26日、日本は2050年までにカーボンニュートラルを達成すると表明した。現在の基本計画「3つのE(エネルギー安定供給、経済効率の向上、環境への適合)+S(安全性)」を「より高度な3E+S」にするために、さまざまな取り組みを進めることが決まった。日本の一次エネルギーに占める化石燃料の割合は未だ高く(2010年度:81.2%、2017年度:87.4%)、今後、再生可能エネルギー(太陽光、風力発電など)の最大限の導入や新たな技術の開発(効率的な送電ネットワーク、水素燃料、蓄電池、カーボンリサイクルなど)が急務となっている。

  1.  

     

    西川氏は、中華世界の周辺部である雲南省南部、石屏県に入植した漢人の活動を通じ、彼らがどのように周辺地域に浸透し、中華世界を膨張させていったかを、以下のように語った。
     石屏県は雲南省から貴州省へ広がる高原の南縁部にあたり、その95%は山地で占められ、残る5%が石屏盆地となっている。ここは非漢人の住む土地であったが、明朝初期(14世紀)から漢人の入植が開始された。石屏盆地は西から東に向けゆるく傾斜しているため、盆地東側の出口には水が集中しやすく、たびたび洪水に見舞われた。石屏漢人は、初めに緩やかな傾斜地で耕地開発を行うが間もなく開発は頭打ちとなる。そこで官主導で大規模低湿地開発を実施し、同時に河川の浚渫、竜骨車による排水などの治水工事を進めた。そして、こうした過程で石屏漢人は高度な土木技術を身に付けていった。
     また、石屏漢人は土地資源の効率化を狙い、綿や麻などの工芸作物の栽培や手工業を盛んに行い、豊かな経済力を背景として多くの知識人を輩出した。しかし、明末(17世紀初頭)には土地資源の開発は限界に近付き、石屏漢人は周辺地域への移住に活路を求めた。有力な移住先となったのは、古くから六大茶山と呼ばれ、プーアル茶の栽培で名高い西双版納(シープソンバンナー)タイ族自治州の猛臘県であった。当時、茶栽培は地元の少数民族が担っており、栽培方法は原始的で、品質も安定していなかった。石屏から移住した漢人たちは石屏盆地で習得した工芸作物の栽培技術をプーアル茶の栽培に応用し、高品質の茶を安定に栽培することに成功し、現地社会で存在感を示すようになった。
     そして栽培技術を武器に、地域住民(少数民族)と婚姻を結ぶなど関係性を深め、茶山の周辺地域に茶栽培を普及させていった。経済的に豊かになった漢人は高利貸を手掛けるようになり、地元民との摩擦が強まった。反乱が起き、清朝政府が鎮圧に乗り出し、漢人商人の営業を制限することもあったという。
    (以下、山岸の感想)このような話を聞き、現在も膨張を続ける中華世界のルーツを見る思いがした。
    参考:西川和孝著「雲南中華世界の膨張」-プーアル茶と鉱山開発にみる移住戦略(慶友社、2015年)

  2. 「七つの大陸の最高峰を訪ねて‐山岳部復活を目指したドリーム計画-」
    落合 正治(神奈川大学体育会山岳部総監督

     落合監督は、神奈川大学山岳部OB会の中心メンバーである。同山岳部OB会が、現役部員と一体となって山岳部を復活させていった経緯を次のように語った。
     今から20数年前、神奈川大学山岳部の最後となる部員から歴代リーダーへ、「我々が卒業すると部員はゼロ。休部となり、数年後には廃部手続きとなる」との連絡が入った。歴代リーダー数名が集まり協議したが、解決の糸口は見つからず、諦めかけていた。そうした中、この事情を聞きつけた数名のOBから、山岳部復活を支援するため、OB会を再編すべしとの声が上がった。これに応え、同OB会は神奈川大学校友会に同期同好組織として登録し、再出発することになった。
     しかし、山岳部復活への道は遠く不透明であった。最大の難関は、ロートルOBが「どうやって新入部員を確保するか」という点であったが、近隣大学山岳部員とOB会員子女の協力により3名の新入部員を確保することができた。OB会は指針として、新入部員に部活動を通じて楽しさと厳しさを体験してもらうとともに、現役部員とOB会員が大きな目標を共有することが重要と考え、夢実現計画ドリーム21~夢抱き、夢育み、夢実現~として、七大陸の最高峰制覇(いわゆるセブンサミッツ計画)を提唱した。
     10代から70代の隊員で編成される遠征隊を組織し、人材や資金確保など多くの難問を乗り越え、2002年~2009年の7年間で、単独大学としては世界初のセブンサミッツ制覇を成し遂げた。講演では七つの大陸の最高峰が、現役部員とOB会員のチームにより毎年、ひとつづつ登られてゆく経過がスライドで紹介された。
     神奈川大学山岳部は現在、部員30名を数えるが、その内、登山(アルパインスタイル)を指向する部員は7名で、その他はクライミング、トレイルランを指向する部員である。同大学では早い時期から学内にクライミングウォールが設置され、毎年、これを使ったクライミングコンペが、日本山岳会青年部・学生部主導の下、全国から70名近い学生を集め実施されている。 
     部員減に悩む大学山岳部が多い中、なぜ神奈川大学山岳部はこれほど多くの学生を惹き付けることができるのか?という質問に対し、落合監督は、現在の多様化する登山の形態に対応した活動プログラムが用意されていること、学生が登山の魅力に気付き、目覚めるのを支援していることを挙げた。
     落合監督は同山岳部卒業後、アマゾン・オリノコ河踏査隊の隊員となり、同地を長期にわたり調査・探検した。このとき、現地の自然から多くを学び、目覚めたと語ったが、この経験が、同山岳部・OB会の高い目標設定、学生自身の覚醒をうながす指導のあり方に反映されていると感じた。神奈川大学山岳部・OB会は次なるプロジェクト:夢無限~G&G計画~(世界のGreat Summits 10峰、ヒマラヤGiants 14座を登頂する)の実現に向け、活動を続けていくとのことである。

  3. 「スマトラ・カリマンタンの低湿地と地球環境問題‐泥炭湿地をはいずりまわる‐」
    嶋村 鉄也(愛媛大学大学院農学研究科准教授

     最近、世界各地で大規模な森林火災が報道されている。嶋村氏の研究フィールドであるインドネシアの熱帯泥炭湿地林の火災もその一つであり、1997年の大規模火災ではインドネシア一国で0.8~2.6ギガトンの炭素が大気中に放出された。これは世界全体の年間化石燃料消費量の13~40%に相当するという(Page et al., Nature, 2002)。
     熱帯低湿地の水が溜まりやすい場所では植物遺体の分解が抑えられ、泥炭層となって堆積する。その厚さは10mを越え、最厚部が20~30mに達するドーム状地形を形成する場合も多い。一般的に、森林での樹木が占める空間密度は0.8%程度となっているが、泥炭湿地林では地下のほぼ100%が植物遺体で埋め尽くされるため、地下の炭素蓄積量は地上に比べ膨大になる。そのため泥炭層が火災を起こすと大量の炭酸ガスが排出され、地球環境に深刻な影響を及ぼすわけである。
     野外調査フィールドとしての熱帯泥炭湿地林は、世界最悪の環境と言える。高温、多湿。ありとあらゆる毒虫と吸血動物。地盤は軟弱で、樹木根の無いところへ足を踏み出せば膝から股下まで潜ってしまう。嶋村氏は学生時代、熱帯での研究にあこがれ、アジアアフリカ地域研究研究科生態環境論研究室のドアを叩いた。教授は嶋村氏の風貌を一目見て、この過酷なフィールドに耐えられる人物と見込み、彼をそこに送り込むことにしたという。
     現在、熱帯泥炭湿地林は、地球温暖化との関連から、その炭素蓄積量や収支動態への関心が高まり、多くの研究がなされるようになった。しかし、その生態系の研究は殆ど手つかずで、嶋村氏は学生時代以来、一貫してこの未開の研究分野に取り組んできた。その研究成果の一端として、泥炭湿地林の開花結実の時期が、雨期に伴う水位上昇や動物による捕食と深く関わっていること等を紹介した。
     また、泥炭湿地林の開発に伴う環境問題についても語った。開発にあたり、森の樹木は皆伐され、湿地に排水路が掘られ、泥炭地は乾燥化する。農地に転換するため泥炭に火入れが行なわれる。しかし、農地として使い物にならない場合も多い。例えば1995年、政府が行った大規模水田開発では、100万ヘクタールの土地のうち、その大部分が、繰り返す火災によって放棄された。放棄された泥炭地はチガヤが繁る荒廃地となり、乾燥した泥炭が火災を起こしやすい危険な土地となる。
     地球環境を守る観点からは、このような荒廃地の原状回復が望まれるが、地元住民は環境問題よりももっと差し迫った問題を抱えている。元の森林を回復させるには数十年の歳月を要すが、まずはこの期間、地元社会が安定に維持されることが先決である。また森林を管理するには、生物の営みについての基本的知見も必要になる。それゆえ泥炭湿地林を巡る環境問題は、温室効果ガスや炭素動態のみの問題ではなく、生物・環境・人間社会の総合的な問題として捉えるべきである、と嶋村氏は強調する。

  4. 「冬山登山の実像∸黒部川横断、冬劔、冬薬師、そして海外の山々—」
     山本 宗彦(明治大学体育会山岳部(前)監督、炉辺会、日本山岳会副会長、日本・ネパールカンチェンジュンガ登山隊(JAC、1984年)隊員

     山本氏は明治大学山岳部を卒部した後、同部のコーチ、監督(2005~2017年)を長く務め、2019年より日本山岳会の副会長を務めている。同氏は多くの高度な海外登山(ボゴダⅡ峰初登、レーニン峰・コミュニズム峰登頂、カンチェンジュンガ南峰(8250mまで)、主峰(8300mまで)、マッシャーブルム北西壁初登攀、ブロードピーク、ラカポシ東峰、チョモランマ東北東稜の登頂、マカルー東稜下部初登攀など)、冬期の剣岳、黒部横断登山などを重ね、60歳を迎えた現在でも重荷を背負い、若い仲間と冬の剣岳や、その周辺の登山を続けている。これらの山々の素晴らしいスライドとともに語った同氏の言葉は含蓄が深く、共感を呼ぶものであった。その一端を当日の配布資料を参考に、紹介したい。
    ・私は13歳の秋に、登山を自分の生活の軸にすることを決め、明治大学山岳部を目指すことにしました。そのためには明大附属高校に入るのが早道で、その入試に必要な3科目だけを中学で勉強し、入学することができました。
    ・私は13歳の秋に登った秩父御岳山を自分の登山の第1回目として記録を取り始め、2019年最後の山行が733回目となりました。その中で、私にとってはマッシャーブルム北西壁初登攀も秩父御岳山も同じ1回であり、同じように価値ある登山です。
    ・私にとっての登山は、自然の中に自ら分け入り、山に登る素朴な行為であり、ひたすら自身の価値観を具現化し続ける信仰のような行為です。いつのまにか、その信仰は47年ほどになりました。
    ・自分で考え、自分で決め、自分で実践することが登山の基本であり、自分で作ったルールを自分で守りながら登る行為は、自由ということの究極な表現であり、一つひとつの登山は、あたかも作品の様なものかもしれません。
    ・既存のルートから外れた日本の冬山は「不安・不快・不便」が際立ちます(これに比べれば、ヒマラヤは快適です)。日本の雪山はヒマラヤと異なり、毎年、夏には雪が消え、冬には雪が積もる繰り返しで、毎年状態が変わり、一度でも同じ冬の剱岳に遭遇したことはありません。未知への遭遇があり、新しい発見があります。
    ・私は冬の剱岳と大学山岳部の合宿で出会いました。五六豪雪(註1)と呼ばれた年の冬に赤谷山から剱岳まで縦走したことが今の登山の原点の様に感じます。まだまだ未熟な大学3、4年生の山岳部員が、あの状況の中で計画を完遂して無事に下山できたことは、運に恵まれたことも否定できませんが、同時にそれを実現した思 
     考と歴史は自分の血肉であり、私の登山の土台となっています。
    ・「藪山からヒマラヤへ、そして冬の剱岳へ」という私の登山は、現代のスマートでファッショナブルな登山とは程遠く、地を這うようで泥臭いものです。同じことを繰り返す愚直な行為ですが、その行為を通じて、決してお金では買うことのできない、誰からも盗まれることのない宝物を得ることができたように感じ、山と登山という行為に感謝しています。
    その他、大切なこと、大事にしていることとして、「家族の理解」、「事故を起こさない」、「一緒に登る仲間がいること」を挙げ、雪崩などの事故を未然に防ぐために「雪の声を聴けるようでありたい」と語った言葉が印象的であった。
    (註1)五六豪雪:昭和55年12月から56年3月にかけ、東北地方から北近畿までを襲った記録的豪雪。この冬の降雪量は福井市で昭和38年の596cmを超え、622cmを記録。昭和61年の豪雪と並び、歴代1位である。

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