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第44回雲南懇話会は、2018年4月21日(土)に開催いたします。ご予定に入れておいて頂ければ幸いです。

残席が少なくなりました。満席の場合はご了承願います(4/7追記)

概要

第44回

日時;2018年 4月21日(土)13時00分~17時00分。茶話会;17時00分~18時00分。
場所;京都アカデミアフォーラム(東京駅前、新丸の内ビル10階)

  演題
発表者
所属
1 京でも見えたオーロラ-明和7年の巨大磁気嵐 〜2018年1月、文理融合シンポジウムの成果紹介〜 山岸 久雄 国立極地研究所名誉教授、AACK
 2 ヒマラヤ氷河研究最前線 〜2009年のヒマラヤ氷河スキャンダルとその後の展開〜 藤田 耕史 名古屋大学大学院 環境学研究科教授、笹ヶ峰会
3 尾瀬と共に54年 〜札幌、京都を結んで〜 平野 紀子 尾瀬沼畔 長蔵小屋三代目
4 通える夢は崑崙の 高嶺の彼方ゴビの原 〜李陵説話と西域慕情〜 冨谷 至 龍谷大学教授、京都大学名誉教授(中国法制史)
5 総括(まとめ) 安仁屋 政武 雲南懇話会代表、筑波大学名誉教授

備考:

  1. 参加ご希望の方は、資料準備部数の都合上、下記添付資料のご案内に書かれた連絡先までご連絡いただきますようお願いいたします。
  2. 講師、演題、講演の順序など変更ある場合は、ご了承をお願い致します。
  3. 入館には、2か所で専用のIDカードが必要です。1箇所は、地下1階の新丸ビル入口(スターバックスの前)。もう1箇所は館内1階のエレベーターホール入口です。2か所共に「雲南懇話会」と表示した立て看板を用意し、カードを所持した雲南懇話会幹事を配置いたします。配置する時間帯は12時20分~13時15分の間とします。なお、新丸ビルを退出する場合は自由ですが、再入館はカードが必要になります。ご注意ください。
  4. 雲南懇話会は、雲南懇話会主催、京都大学ヒマラヤ研究ユニット&AACK共催で行われています。

3番目に、平野 紀子 氏(尾瀬沼畔 長蔵小屋三代目)から、『尾瀬と共に54年 〜札幌、京都を結んで〜』と題した発表をいただきました。

 片品村は群馬県の北北東に位置し、新潟・福島・栃木の各県に接しています。標高は大よそ1000m(最高2,578m、最低640m、役場所在地813m)。片品村戸倉の戸数は約40戸ほどです。
明治22年8月、平野長蔵は、僅か19歳で燧岳に独りで登頂し、登山道を拓きました。同年9月には再び30人の信者と共に燧岳を登頂し、石祠を建祭しています。勿論、それまでに本人は独学で木曽の御嶽行者について神道の道を学んだ訳です。小学校は3年までしか行けなかった貧農の子でありながら、漢学と日本の古典を深く愛し、神道に仕える頑固一徹な人でした。
 長蔵は学生を可愛がりました。長蔵の夢は、将来、尾瀬沼畔に学生村を作り、質実剛健な気を養うことにありました。嘆願書を作り、入山してくる人たちに賛同を呼び掛けました。大正から昭和初期という時代背景、置かれた厳しい環境を考えると、長蔵は、相当な人だったと思います。
2代目長英は、日光今市で育ちました。大正7年尋常高等小学校高等部卒業(今の中学2年)、尾瀬沼に入ります。一労働力として連れていかれ、約60年間、尾瀬で暮らす訳です。
 『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』(庄田元男訳,講談社学術文庫,2017年)を見ると、アーネスト・サトウ(通訳官、駐日英国公使)は、当時の片品村村長の家に泊まっています。村史を調べたところ明治30~32年頃に、日光・金精峠から尾瀬、八十里越えを経て新潟に抜けています。彼の次男、武田久吉先生が、明治38年(1905年)に尾瀬に入り「尾瀬紀行」を著わし、日本山岳会「山岳」(創刊号、1906)に掲載されました。その紀行文を読んだ画家の大下藤次郎さんが、1908年6月下旬~7月初旬の頃に4人で尾瀬に入り写生旅行をしました。大下藤次郎さんは、今でいう水彩画家、水絵ですね。彼は、1905年に「みづゑ」という美術雑誌を創刊し、その臨時増刊号に尾瀬特集号として尾瀬の作品群を紹介された。この時初めて、尾瀬が世間に知られることになりました。東京の山登りしている人たちの眼に触れ、徐々に入山してきました。
(‐中略— 紀子さんの祖父母、ご両親、北海道新聞社入社後のご自分の働く様子、山登り
のこと等が語られた。長靖さんの小学・中学・高校生時代の様子、尾瀬沼のダム計画、など
も語られた。)
 長靖は、長英の長男として片品村に生まれました。昭和29年に京都大学に進み、昭和34年北海道新聞社に入社。紀子は、昭和31年入社。長靖が入社した昭和34年頃は安保闘争の時代、組合も元気な時代でした。平野と同じ青年部の役員になった訳です。長靖は、長蔵小屋を継ぐ予定は無かった。しかし、後継ぎと目されていた弟が、静岡の海岸で急逝。母靖子には、「山の人間なので、海には行かない」と言っていたのだそうですが。
 長靖が昭和38年に尾瀬に戻ってきた時、尾瀬はゴミの山だった。本当にひどかった。長靖は、“長蔵が小屋を開き燧岳を開山したから、こうなった”と言って、毎日腕組みしては燧岳の方をじっと見つめて苦しんでいました。昭和41年、山岳観光道路の建設工事が始まり、どんどんどんどん三平峠への道を壊していきました。そしてついに、“私たちがいつもヨイショっといって腰を下ろし寛いでいた岩清水”を壊してしまいました。長靖は堪えられなくなって、朝日新聞の声欄に投書しました。「岩清水が枯れます。皆さん、助けてください」。でも全然反応がありませんでした。
 そうこうしている内、7月1日、環境庁が発足。初代長官に就任した大石武一は、「私は、日本の自然を守るために力を尽くします。」と述べた。このコメントを母靖子が見て、「この方にお頼みしてはどうか」と言いました。長靖は単身上京し、大石長官のご自宅を訪問。私も一緒しました。ご自宅には大きなコケシ人形が二つありました。それが、非常に印象的でした。何と、大石長官は1週間後に現地視察することになりました。至仏山から尾瀬ヶ原を望み、尾瀬沼、最後に三平峠に来ました。視察を終えた大石長官は長靖を呼び、「この道は止めようね」と言って下さった。環境庁の地元への説得により、工事は確実に中止されました。
 長靖が亡くなったのは、今でいう過労死ですね。山にいたその晩はもの凄い雪だった。戸倉でも凄い雪だった。それでも翌日に東京で予定された自然保護の集いに出席するために、(昭和46年12月1日朝)下山しました。夏なら、長蔵小屋から30分ちょっとで沼畔の三平峠下、それが峠下到着は正午近く。大阪工業大学の学生が三平峠にテントを張っていて、その人たちのトレースを利用したのですが、三平峠に17時少し前、一ノ瀬に21時頃ようやく辿り着きました。付き添っていた大阪工大の学生に「私は長蔵小屋の息子です。こんな形で死ぬのは恥ずかしい。」と言いながら、子供たちの話をして、最後に「生涯に悔いはなかった」と言って息を引き取りました。36歳でした。
 私は、30歳の若さで山のような借金と3人の幼児を抱えてしまいました。祖父母は孫の世話、私は借金返済。歯を食い縛るもの凄い日々。毎日、1日が終わると、「あァ、今日も1日、無事に終わった」、この連続でした。生きていて一番うれしかったことは、「やれた」ということ。「1年間!あァ、自分に出来た!」。それには、昔から働いていた2人の番頭の助けがありました。桧枝岐からひとり、67歳で退職。片品村からひとり、通称すけさん(79歳)。すけさんは今も戸倉で畑仕事をしてくれてます。
(‐中略‐ 佐藤栄作総理と大石武一環境庁長官、長男太郎さん(4代目)、長蔵小屋で働
いた人たちのその後、現在の利用者数と経営のこと等が語られた。)
 私は今、無給で働いています。息子がボケ防止のために働けと言うものですから。でも、あそこで働けるということは「神様、ありがとう。素晴らしい。」と私は思います。長蔵お爺さんも、たった一人でやっていたんだ。本当に貧しいけれど、暮してた。良いじゃないか!

 

以上は、講演の要点を口述に沿ってまとめたものです。

最後に、冨谷 至氏(龍谷大学教授、京都大学名誉教授(中国法制史))から、『通える夢は崑崙の 高嶺の彼方ゴビの原 〜李陵説話と西域慕情〜』と題した発表をいただきました。

冨谷名誉教授は本講演の1年前、第40回雲南懇話会で「西域のロマンと史実」‐悲劇の将軍・李陵とかれの末裔-という演題で、BC100年頃の漢の武将、李陵にまつわる悲劇について講演された。匈奴との戦で勇敢に戦った李陵は捕虜となり、不屈の精神でその境遇に耐えていたが、李陵が寝返ったとの誤報が漢に伝わり、これを信じた武帝は李陵の一族を反逆罪への連坐として族刑(斬首)にしてしまう。これを知った李陵は匈奴に寝返らざるを得なくなり、二度と祖国に戻ることはなかった、という悲劇である。当時は逆臣とされた李陵であったが、その後、時代が下るに従い、李陵悲話伝説が生まれ、悲劇の英雄へと評価が変わっていった。本講演では、このような評価の変化がいつ生じたのか、また、その社会的背景は何であったのか、について語られた。冨谷名誉教授の第40回と第44回懇話会での講演内容はヒマラヤ学誌の最新号に掲載されている(冨谷,2019、註2)。ご一読願いたい。以下、本講演の要点を上記論文より引用させていただく。
漢帝国の滅亡の後、華北の地は異民族が支配し、漢人は揚子江流域~江南一帯へ追いやられ、東晋王朝を建てるに至った(南北朝時代)。南の漢人らは、いつの日か華北を奪還したいと願っていたが、圧倒的な力を持つ北方騎馬民族を前に、それは見果てぬ夢であった。しかし、華北の地で豪族として勢力を維持していた漢人の一族(隴西の李氏)もあり、その代表は李玄盛であった。李玄盛は西暦400年に西涼を建国し、東晋に恭順の意を伝える使者を送った。
南の漢人にとって、見果てぬ夢の地、華北で活躍する李玄盛は英雄と映った。史書には、李玄盛は李陵一族と同じ隴西の出身であり、李陵の祖父、李広将軍の十六世の孫、という記述がある。李陵の時代から500年経ち、逆臣のイメージが風化した頃、李陵一族の末裔が華北に英雄として登場した。南の漢人は改めて李陵の悲劇を思い出すことになり、これが李陵悲話伝説となっていった。
 南の漢人にとって、自分達の祖先が活躍した華北や西域は、遥か彼方の地であり、現実とはかけ離れた想像の世界であった。唐詩には西域を抒情をこめて詠う「西域詩」というジャンルがあるように、西域は物語、詩文の世界となっていった。しかし、その想像の世界の強さは歴史家の目を曇らせ、歴史の解釈に影響を及ぼすほどになった。本講演では、その例を二つ挙げられた(冨谷,2019)。なお、冨谷論文には詩文集『文選』に載っている「李少卿答蘇武書」(李陵が、おなじく匈奴の捕虜となった蘇武に送ったとされる書簡)の全文訳が載っている。そこに漂う西域慕情を読みとっていただきたい。
(註2)冨谷至,2019:西域ロマンの成立,ヒマラヤ学誌,20号,75-83.

 

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