最後に、冨谷 至氏(龍谷大学教授、京都大学名誉教授(中国法制史))から、『通える夢は崑崙の 高嶺の彼方ゴビの原 〜李陵説話と西域慕情〜』と題した発表をいただきました。

冨谷名誉教授は本講演の1年前、第40回雲南懇話会で「西域のロマンと史実」‐悲劇の将軍・李陵とかれの末裔-という演題で、BC100年頃の漢の武将、李陵にまつわる悲劇について講演された。匈奴との戦で勇敢に戦った李陵は捕虜となり、不屈の精神でその境遇に耐えていたが、李陵が寝返ったとの誤報が漢に伝わり、これを信じた武帝は李陵の一族を反逆罪への連坐として族刑(斬首)にしてしまう。これを知った李陵は匈奴に寝返らざるを得なくなり、二度と祖国に戻ることはなかった、という悲劇である。当時は逆臣とされた李陵であったが、その後、時代が下るに従い、李陵悲話伝説が生まれ、悲劇の英雄へと評価が変わっていった。本講演では、このような評価の変化がいつ生じたのか、また、その社会的背景は何であったのか、について語られた。冨谷名誉教授の第40回と第44回懇話会での講演内容はヒマラヤ学誌の最新号に掲載されている(冨谷,2019、註2)。ご一読願いたい。以下、本講演の要点を上記論文より引用させていただく。
漢帝国の滅亡の後、華北の地は異民族が支配し、漢人は揚子江流域~江南一帯へ追いやられ、東晋王朝を建てるに至った(南北朝時代)。南の漢人らは、いつの日か華北を奪還したいと願っていたが、圧倒的な力を持つ北方騎馬民族を前に、それは見果てぬ夢であった。しかし、華北の地で豪族として勢力を維持していた漢人の一族(隴西の李氏)もあり、その代表は李玄盛であった。李玄盛は西暦400年に西涼を建国し、東晋に恭順の意を伝える使者を送った。
南の漢人にとって、見果てぬ夢の地、華北で活躍する李玄盛は英雄と映った。史書には、李玄盛は李陵一族と同じ隴西の出身であり、李陵の祖父、李広将軍の十六世の孫、という記述がある。李陵の時代から500年経ち、逆臣のイメージが風化した頃、李陵一族の末裔が華北に英雄として登場した。南の漢人は改めて李陵の悲劇を思い出すことになり、これが李陵悲話伝説となっていった。
 南の漢人にとって、自分達の祖先が活躍した華北や西域は、遥か彼方の地であり、現実とはかけ離れた想像の世界であった。唐詩には西域を抒情をこめて詠う「西域詩」というジャンルがあるように、西域は物語、詩文の世界となっていった。しかし、その想像の世界の強さは歴史家の目を曇らせ、歴史の解釈に影響を及ぼすほどになった。本講演では、その例を二つ挙げられた(冨谷,2019)。なお、冨谷論文には詩文集『文選』に載っている「李少卿答蘇武書」(李陵が、おなじく匈奴の捕虜となった蘇武に送ったとされる書簡)の全文訳が載っている。そこに漂う西域慕情を読みとっていただきたい。
(註2)冨谷至,2019:西域ロマンの成立,ヒマラヤ学誌,20号,75-83.

 

Additional information