最後に、阿部 幹雄 氏(写真家・ビデオジャーナリスト、北海道大学山とスキーの会、雪崩事故防止研究会代表、日本雪氷学会雪氷災害調査チーム前代表)から、『生と死のミニャ・コンガ(7,556㍍、中国四川省) 〜39年間の物語〜』と題した発表をいただきました。

 ミニャ・コンガ(7556㍍、四川省)をめぐる長い物語は、阿部氏の少年時代の石鎚山登山、山に開眼した北大山とスキーの会での活動の話しから始まった。1980年、ミニャ・コンガ偵察のため、阿部氏は同峰の東側山麓の村を訪問した。阿部氏らは同村を50年ぶりに訪れる外国人だった。その日、村に初めての自動車が走り、車に乗った阿部氏らは大群衆に囲まれた。
 1981年、北海道山岳連盟はミニャ・コンガ登山隊を派遣。登山隊の行動をふりかえると、4,000mの高度で各自30kgの荷を担いで歩行するなど、高度順応には向かない方針が採られることがあった。これを含め、山行中に嫌な予感を3回感じたという。その予感は現実のものとなった。頂上直下、1本のロープにつながった8名の隊員の内、1人が滑落。他の隊員も次々に引きずられ、滑落する仲間を確保しようとした隊員は、空中に弾き飛ばされてしまった。阿部氏はたまたま、このロープに連なっていなかったため、滑落はまぬがれ、1人生き残ったが、その後の行動中、クレバスにかぶった新雪を踏みぬき、体が落ち込み、脱出できなくなる。登頂隊の安否を心配し、下のキャンプから上がってきた1人の隊員の献身的な努力でクレバスから脱することができた経緯を冷静に語られた。
 事故の9年後、阿部氏は登山を再開したが、高さを求めず、垂直から水平方向の探検へと志向を変えた。1995年、遭難した登山隊の遺品が出現したとの報を受け現地に赴き、遺体捜索を行う。その後、2009年まで4度にわたり遺体捜索・収容を行い、遺体は現地で荼毘に付し、遺骨、遺品を遺族のもとへ届けたという。慰霊のため遺族を現地に案内すること、6度に及んだ。大遭難の中で1人生かされたことの意味を自問する阿部氏にとって、この困難な仕事に取り組むことは、その答を得るプロセスでもあったろう。その献身的な努力には頭が下がる。阿部氏はこの間、山岳狩猟民族イ族が暮らす村の変容を30年にわたり見てきた。彼らは火縄銃を携え、狩猟と薬草採取のために山に登る生活をしてきたが、現在は近代化が進み、電化製品と携帯電話が普及している。現地には観光ホテルが林立し、ロープウェイが建設された。
 阿部氏は2007年から3年連続して南極観測隊に参加した。昭和基地から700km離れたセール・ロンダーネ山地での長期キャンプ生活を伴う広域地学調査に登山の専門家として参加し、隊員の安全と生活を守る任務についた。困難な自然環境の中、誰ひとり事故に遇うことなく調査成果を上げ、任務を全うできたのは、ミニャ・コンガの遭難と真摯に向き合った阿部氏ならではのものであったろう。阿部氏は親交のあった上田豊氏(Yalung Kang(8505m)初登頂者、本会会員)から贈られた“生きて帰れ”のひと言を胸に、ミニャ・コンガに向かったが、南極での隊務の最後に、上田氏が25年前に拓いたルートを逆にたどる旅をすることができ、感無量であったという。ミニャ・コンガで始まった長い物語は、2010年、南極の話しで結ばれた。

 

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