最後に、山本 宗彦 氏(明治大学山岳部(前)監督、炉辺会、日本・ネパール カンチェンジュンガ登山隊(JAC、1984年)隊員)から、『冬山登山の実像 〜黒部川横断、冬劔、冬薬師、そして海外の山々〜』と題した発表をいただきました。

 山本氏は明治大学山岳部を卒部した後、同部のコーチ、監督(2005~2017年)を長く務め、2019年より日本山岳会の副会長を務めている。同氏は多くの高度な海外登山(ボゴダⅡ峰初登、レーニン峰・コミュニズム峰登頂、カンチェンジュンガ南峰(8250mまで)、主峰(8300mまで)、マッシャーブルム北西壁初登攀、ブロードピーク、ラカポシ東峰、チョモランマ東北東稜の登頂、マカルー東稜下部初登攀など)、冬期の剣岳、黒部横断登山などを重ね、60歳を迎えた現在でも重荷を背負い、若い仲間と冬の剣岳や、その周辺の登山を続けている。これらの山々の素晴らしいスライドとともに語った同氏の言葉は含蓄が深く、共感を呼ぶものであった。その一端を当日の配布資料を参考に、紹介したい。
・私は13歳の秋に、登山を自分の生活の軸にすることを決め、明治大学山岳部を目指すことにしました。そのためには明大附属高校に入るのが早道で、その入試に必要な3科目だけを中学で勉強し、入学することができました。
・私は13歳の秋に登った秩父御岳山を自分の登山の第1回目として記録を取り始め、2019年最後の山行が733回目となりました。その中で、私にとってはマッシャーブルム北西壁初登攀も秩父御岳山も同じ1回であり、同じように価値ある登山です。
・私にとっての登山は、自然の中に自ら分け入り、山に登る素朴な行為であり、ひたすら自身の価値観を具現化し続ける信仰のような行為です。いつのまにか、その信仰は47年ほどになりました。
・自分で考え、自分で決め、自分で実践することが登山の基本であり、自分で作ったルールを自分で守りながら登る行為は、自由ということの究極な表現であり、一つひとつの登山は、あたかも作品の様なものかもしれません。
・既存のルートから外れた日本の冬山は「不安・不快・不便」が際立ちます(これに比べれば、ヒマラヤは快適です)。日本の雪山はヒマラヤと異なり、毎年、夏には雪が消え、冬には雪が積もる繰り返しで、毎年状態が変わり、一度でも同じ冬の剱岳に遭遇したことはありません。未知への遭遇があり、新しい発見があります。
・私は冬の剱岳と大学山岳部の合宿で出会いました。五六豪雪(註1)と呼ばれた年の冬に赤谷山から剱岳まで縦走したことが今の登山の原点の様に感じます。まだまだ未熟な大学3、4年生の山岳部員が、あの状況の中で計画を完遂して無事に下山できたことは、運に恵まれたことも否定できませんが、同時にそれを実現した思 
 考と歴史は自分の血肉であり、私の登山の土台となっています。
・「藪山からヒマラヤへ、そして冬の剱岳へ」という私の登山は、現代のスマートでファッショナブルな登山とは程遠く、地を這うようで泥臭いものです。同じことを繰り返す愚直な行為ですが、その行為を通じて、決してお金では買うことのできない、誰からも盗まれることのない宝物を得ることができたように感じ、山と登山という行為に感謝しています。
その他、大切なこと、大事にしていることとして、「家族の理解」、「事故を起こさない」、「一緒に登る仲間がいること」を挙げ、雪崩などの事故を未然に防ぐために「雪の声を聴けるようでありたい」と語った言葉が印象的であった。
(註1)五六豪雪:昭和55年12月から56年3月にかけ、東北地方から北近畿までを襲った記録的豪雪。この冬の降雪量は福井市で昭和38年の596cmを超え、622cmを記録。昭和61年の豪雪と並び、歴代1位である。

 

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