奥山 直司氏による『日本人とチベット ―河口慧海のチベット旅行を中心として―』(ヒマラヤ学誌 No.16, 234-244, 2015)を、ヒマラヤ学誌編集委員会(編集責任者;松林公蔵京都大学教授, 奥宮清人京都大学准教授)の承諾を得て、掲載しています。

日本人とチベット ―河口慧海のチベット旅行を中心として―

奥山 直司

 日本人がチベットと本格的な関わりを持つのは、日本が近代化の道を歩みはじめて以降のことである。1887(明治20)年前後から、日本仏教界には「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こり、何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット高原にかけて果てしなく広がる「未知の土地」の探検に名乗りを上げた。

 当時のチベットは、外国、特に英国に対する警戒心から国を閉ざし、外国人の立ち入りを厳しく制限していた。そのためその内情は外の世界には殆ど知られず、チベットは「禁断の国」、「神秘の国」と見做されていた。それだけにこの国は、世界中の探検家、冒険旅行家、学者、調査員、さらには宗教家、夢想家などの関心を引き付けた。そして19 世紀末の日本では、この関心が仏教徒の間の入蔵熱となって表れたのである。彼らにとってチベット探検は、西洋の東洋学者たちが唱える大乗非仏説論(大乗仏教は釈迦牟尼の説いた教えではなく、後世の創作物であるという説)への反証の意図を含む仏教の源流の探究、アジアの他の仏教徒との連合、キリスト教に対抗した仏教の世界布教など、明治仏教界に課せられた様々な課題の解決を目指す動きの一部であった。

 かくして入蔵を志した日本人の中で最初に「禁断の都」ラサに到達した人物が、黄檗僧河口慧海(1866-1945、図1)である。彼が最初のチベット旅行の一部始終を語った『西蔵旅行記』(初版:博文館、1904 年)は、様々な版を産み出し、また英語版(Three Years in Tibet, 初版:Madras,1909)を皮切りに各国語に翻訳されて、日本だけでなく世界中で、ヒマラヤ・チベット、あるいは探検・冒険一般に関心を持つ人々の間で読み継がれてきた。

 本稿では、彼の足跡を日本からヒマラヤ・チベットへと辿りながら、日本・チベット関係の原点ともいうべき彼の探検行に秘められた志などについて考えてゆきたい。なお巻末に慧海が弟河口半瑞(1876-1946)に宛てた書簡1 通を附載した。

(以下、添付ファイルをご参照くださいませ。)

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