第40回雲南懇話会の講演概要
- 中央アジアの結節点パミール
〜自然と暮し、歴史〜
本多 海太郎(パミール中央アジア研究会事務局長、AUDAX JAPAN(元)副会長、玄奘福舎主宰)
演者は2005年以来、13回、パミール中央アジアを訪問している。その内、タジキスタン訪問は7回。中央アジアの山国 タジキスタン、その美しい自然と人々の暮らしを紹介された。十九世紀末から数々の探険家、冒険家が渉猟し、ある時は国家の策略と力とが横行した(グレートゲームの)地域に、今何が起きているのか? かの玄奘三蔵法師、或いはマルコ・ポーロが辿った道は今、どんな様相を呈しているのか! 中国、アフガニスタンとの国境地帯の様子、厳冬のゾルクル(ビクトリア湖)周辺の様子なども、紹介された。ここでも中国の台頭は凄まじく、新しい道路・隧道工事、鉱山開発が活発に行われ、実効支配地域も拡大しているという。
【ご参考】演者は、井手マヤさんと共に制限時間90時間内で1200kmを自転車で走破する、「Paris-Brest-Paris, PBP」を完走された(2011年8月)。その井手マヤさんが、「多分、私と本多海太郎さんほどタジキスタンを隈なく歩いた日本人はいないのではないかと思います。」と述べている。(第33回雲南懇話会での講演にて。)演者には「大パミールの源流域を訪ねる」(オクサス学会紀要2)との紀行文がある。 - 雲南‐多様な自然、民族、歴史、その文化の魅力
〜第12回雲南フィールドワーク(2016年秋)の報告も交えて〜
清水 信吉(住友化学㈱ OB、(元)触媒学会副会長、京都大学WV部OB)
「山歩きや植物が好きということで雲南や四川省奥地のファンになった素人の立場で、雲南の魅力について、感想を交えて語ります。」と前置きし、「雲南と言えば何かと問われれば、稀にみる「多様性」という言葉で表せる。」として、以下の事柄について概観された。
①自然と植生: 横断山脈を抱えて高度差も大きく、亜熱帯から亜寒帯にわたる種の豊かさで日本と共に世界的なホットポイントです。
②少数民族: 山地と深い谷、点在する盆地、そして周囲に異なる民族に囲まれ、25もの少数民族が暮らしている。勢力の強さなどによる垂直分布も見られる。
③歴史: 日本の志賀ノ島の後漢の金印と同じような前漢の金印も発掘されるなど、古代中国との関わり方も日本とよく似ている。地域内外の民族の政権の歴史もまた多様です。元の侵攻以来中国の政権に組み込まれた。
④文化: 米作、芋類栽培、納豆等の発酵食品、そして少数民族の歌垣や王朝に由来する歌謡や舞踏。
⑤経済や産業: 茶、ゴムなどの状況。
⑥最近の東南、西南アジアの玄関としての地政学と膨大なインフラ投入の状況。
⑦第12回雲南フィールドワーク(2016年秋)の写真を主にした報告。
⑧四川省西部のミニャ・コンガ山や四姑娘山の豊かな自然
西南シルクロードゆかりの地域の現況である。内容は実に多岐に亘った。その分、各編の掘り下げが駆け足となったのは否めない。2016年秋に行った第12回雲南フィールドワークについては、参加者リストと行程を示すに止まった。然し乍らこのフィールドワークの記録は、演者の手により動画像と静止画像(写真記録)から編集され、位置情報・音声等も加味した克明な労作として制作されている。 - パミール・天山7,000mの峰々からヒマラヤの高峰へ
〜タジキスタン、キルギス、カザフスタンの山々、8,000m峰9座の山頂〜
近藤 和美(登山家、高峰ガイド、日本勤労者山岳連盟名誉会員、日本山岳協会国際委員、Snow Leopard award 受賞者)
1972年30歳より海外登山を始める。1984年、42歳で旧ソ連邦に属する7,000m峰に通い始め、89年に4座目のハン・テングリ登頂でソ連山岳連盟から贈られるSnow Leopard賞を受賞した。5座めとなるポベーダ峰を登頂した1991年に、名実ともに7,000m峰全5座完登の称号(雪豹登山家)を得た。西側登山家で最初の5座完登者となったが、その年の末にはソ連邦が消滅してしまったので、結局、ソ連邦岳連制定としては、最初にして最後の西側雪豹登山家となった。
5座とは、イスモイル・ソモニ峰7,495m(タジキスタンの最高峰)、レーニン峰7,134m、コルジェネフスカヤ峰7,105m、ハン・テングリ峰7,010m、ポベーダ峰7,439m(天山山脈の最高峰)である。
1992年50歳で8,000m峰初挑戦(チョーオユー)、その後も8,000m峰に挑戦し続け、2011年69歳でローツェに登頂し、8,000m峰9座に登頂した (うち5座で無酸素登頂。61歳の時のガッシャ―ブルム2峰は日本人8,000m峰無酸素登頂の最高齢記録)。8,000メートル峰9座登頂は、山田 昇、名塚秀二、田辺 治(いずれも故人)と共に、全14座達成の竹内洋岳に次ぐ日本人2位の記録となっている。
演者の活動領域は、国内冬期登攀が下地になって、アルプスでの登攀、インドヒマラヤへと進展させてきたが、8,000m峰での活動の自信になったのはパミール・天山である、という。「6,000m超の山への登山は延べ約75回、内8,000m峰へは20数回となっています。そしてその殆どの山行でリーダーやガイドを務める、即ち『登らせる側』であることに誇りを持っています。」と穏やかに語られた。
高峰登山や山と旅の様子、来し方への想い・教訓など等、極々一端を紹介していただいた。簡潔明瞭で澱みの無い語り口は、聴く人の心を魅了した。ごく近い将来の、雲南懇話会への再来(2回目の講演)を約束していただいている。
- 西域のロマンと史実
〜悲劇の将軍・李陵とかれの末裔〜
冨谷 至(京都大学 名誉教授 (中国法制史))
漢武帝(BC141―88)の時代は、漢が北方異民族匈奴の戦争を経て、強大な帝国を確立した輝かしき時代であり、また西域シルクロードがこの時代から拓かれた。昭和の文豪中島敦の『李陵』は、漢と匈奴の戦争における、一武将の悲運を描いた歴史小説であり、菱田春草の絵画「蘇李訣別」も、同じ匈奴の囚われ人ではあるが、李陵とは異なる道を歩んだ蘇武と李陵のゴビ砂漠での別れの一コマを描いている。
李陵の事件は、BC99~97あたりのことであるが、以後、李陵と蘇武の逸話は、西域のロマンという香りをもちつつ語り継がれていくとともに、異民族がシルクロードに勢力を伸ばす3世紀から5世紀にかけては、漢時代に対する歴史的憧憬を一層強くしていくのであった。
そして、時代がくだった7世紀にはじまる唐王朝、王朝の創始者李氏は、李陵の末裔ともいわれる。それは西域ロマンの所産でもあった。(以上、「講演要旨」より。