第43回雲南懇話会の講演概要
- モンスーン・ヒマラヤに花を求めて
〜ブータン・ネパール紀行〜
松永 秀和(青いケシ研究会、JACアルパインフォトクラブ、カワカブ会)
講演者は2013年、青いケシ研究会の四川省西部の花探索に参加して以来、毎年、中国やインドへ出かけ、4000mを超す高地で大柄の花をつける青いケシ(メコノプシス属)を探索している。昨年は日本・ブータン友好30周年を機会にブータン北西部で、本年はネパール中部で、それぞれ探索を行った。青いケシは約80種あるが、その半数は横断山脈北側の四川省と東側の雲南省に、残る半数はヒマラヤ山脈の南側(チベットの一部を含む)に生息すると言われている。モンスーン時のヒマラヤはヤマビルだけでなく、豪雨による洪水の危険もあり、苦しいトレッキングを強いられるが、可憐な花々に出会う喜びは大きい。
本講演では青いケシを中心に、山麓から3000mまでの低山域に生息する花々、温室構造をもつ植物など、ヒマラヤの南北で命を繋ぐ多数の植物が紹介された。メコノプシス属には青以外に黄色やピンク、ワインレッドの花もある。チョモラリなどの山々の写真とともに、その美しい姿が映写された。青いケシの仲間には、ケシ科の外、ケマンソウ亜科にも青い花があるそうである。たくさんの写真の中に、青いケシと青空を一緒に写した写真があった。たしかに青空のように青いケシであった。
- ブータン王国の諸言語について
〜言語多様性の現状と課題〜
西田 文信(東北大学 高度教養教育・学生支援機構 准教授(言語学))
世界には約7000の言語があり、その内、文字をもつ言語は約350。その言語を話す人口が5000万人以上の言語は23ある(ちなみに、話す人口が多い順位でいうと、日本語は第9位とのこと)。言語学では、生物学のように言語を分類し、系統を調べる研究方法が発達しているが、実は言語学の方が歴史が古く、生物学の分類は言語学に倣ったそうである。このような前置きの後、ブータン王国諸言語の現状が語られた。
講演者が研究対象とするシナ-チベット語族の内、チベット=ビルマ語系の言語は約400あり、その内の20以上が九州ほどの広さのブータン王国で話されている。英語と並び公用語となっているのはゾンカ語であるが、ツァンラ語、ネパール語も同等に広く話されており、いずれも10数万人の話者人口をもつ。一方、それ以外の諸言語を話す人口は数百人から数万人に留まり、その実態は殆ど未解明である。
言語の多様性は人類が共有する文化的財産であるが、これらの言語の多くは今、急速に消滅に向かう「危機言語」となっている。生きた言語を有効に研究できる期間はごく限られている。講演者は遅きに失することが無いよう、できるだけ多くの言語を対象に、言語学の手法を駆使したフィールドワークにより、これらの言語の記述(音韻・形態・統語)と歴史研究(主に音韻変化)を行っている。
ブータンでは狭い地域に多数の言語が存在するというが、これは方言とどう違うのか?という質問があった。2つの言語の間に、対応関係がある言葉がどのくらいの割合で見つかるか、などの分析により独立した言語か、方言か、区別されるという。一方、独立言語として扱われるには、政治的な理由もあるらしい。方言に近い言語が、互いに独立した国家で話されているため、別な言語とされる場合もあるそうだ。
- ロヒンギャ問題はなぜ解決が難しいのか
〜その歴史的背景について考える〜
根本 敬(上智大学総合グローバル学部教授)
ロヒンギャはミャンマーのラカイン州に住むムスリムの人々で、インドのベンガル地方(バングラディシュ)を出自とし、ベンガル語チッタゴン方言のひとつ、ロヒンギャ語を話す。2017年8月、60数万人のロヒンギャがバングラディシュへ難民となって流出し、深刻な問題となっている。しかし、この難民流出は昨今生じたものではなく、1970年代後半以降、3度起きており、彼らは長期にわたり国家により抑圧されてきた。
講演者はロヒンギャ問題の歴史的・政治的背景を紐解き、なぜビルマは政府・軍・国民一体となって彼らを排斥するのか解説された。ラカイン地方には昔、アラカン王国があり、15世紀以降ムスリムの人々が居住していた。1826年~1941年、ラカイン地方は英領化され従来の国境が消えたため、インドのベンガル地方からムスリムの人々が流入し定住するようになった。その後、第2次世界大戦後の混乱期にも流入があった。1950年代にはロヒンギャ語による国営放送が隔週で許されるなど、ロヒンギャが一定程度、国民として認知された時期があった。しかし、1971年に第3次インド・パキスタン戦争が起こり、バングラディシュから難民が流入し、多くは定住したが、バングラディシュとの往来も比較的自由に行った。このことが、ミャンマー国民にロヒンギャ=違法ベンガル移民のイメージを決定づけ、その後の排斥につながった。
2016年4月に国家顧問(大統領より上の立場)に就任したアウンサンスーチー氏はロヒンギャ問題の深刻さを認め、アナン元国連事務総長を委員長とするラカイン問題調査委員会を発足させ、問題解決に向けた答申を2017年8月に公表したが、公表の翌日、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)の軍施設襲撃が起き、それに対する軍の激しい報復、住民の大量難民流出へとつながり、せっかくの答申を活かしにくい状況になっている。
ロヒンギャを排斥しようとする軍、国民の壁を前に、スーチー氏は非常に難しいかじ取りを強いられながらも、短期的には難民の安全な帰還、中長期的にはアナン委員会答申に沿って、ロヒンギャ問題解決に取り組む姿勢を抱いている。国際社会はスーチー氏に対し、非難ではなく、バックアップすることが求められていると指摘された。
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ヒマラヤの高峰登山
〜20数回に及ぶ8000m峰への登高行〜
近藤 和美(登山家、高峰ガイド、日本勤労者山岳連盟名誉会員、日本山岳協会国際委員、Snow Leopard award 受賞者、8000m峰9座登頂者)講演者は第40回懇話会(シルクロードゆかりの地域特集)で主にパミール・天山での登頂の様子について講演されたが、ヒマラヤ8000m峰については言及する時間が無かった。そこで今回の講演では、自身が登頂した8000m峰に的を絞り、現場で撮影した貴重な写真をもとに、じっくりとヒマラヤ高峰登山について語っていただくことになった。
講演者は1992年、50歳にして初の8000m峰チョーオユーを無酸素で登頂して以来、26年間で22回、8000m峰に挑んだ。最初のチョーオユーを除き、全ての隊で隊長を務め、自身も9座に延べ10回登頂した。61歳の時に登頂したガッシャ―ブルム2峰は8000m峰無酸素登頂の日本人最高齢記録であり、未だ更新されていないという。これら数々の8000m峰登山の様子が、順を追って見事な写真で紹介された。そこの現場に行かない限り、撮影できない写真がたくさん映写され、8000m峰の世界を垣間見る思いであった。写真枚数が多いため、講演者はスライドが30秒毎に自動更新される設定で話されたが、思い入れのある写真のところでは、話し足りない様子が伺われ、申し訳ない気がした。
今年76歳を迎える講演者の最近の登山については、近年の労働情勢により長期日数を要する超高峰への同行者が得難くなり、自身の体力低下も相俟って、8000m峰への挑戦は難しくなっている。しかし、夢は持ち続けたいとのこと。2017年はヤラ・ピーク(5520m、ネパール)南東面で順応登山の後、スパンティーク(7027m、パキスタン)を単独で目指した。想定を超える悪天候続きのため6000mで撤退されたが、今もなお意気軒高である。
超人的な山歴を持つ講演者の体力、技術、判断力の成長曲線はどのようなものであったか?との問いに対し、体力のピークは誰しも20歳代だろうが、体力の衰えを技術がカバーしてくれる面がある。そのため55歳までは若い者に後れをとると感じることはなかった。技術は難しい登山経験を積めば向上するが、体力が衰えると技術レベルを維持できなくなる。体力と技術はお互いに関係し合っている。判断力については(経験とともに向上するとは限らない)、常にヒマラヤに行き続けているため、正しい判断力が維持できている。山行にブランクがあれば、判断力は低下するだろう。高峰登山では判断力というよりも、決断力が求められている…と語られた。
この記事は、AACK Newsletter 第84号に掲載されたものである。